今年は雪が降りすぎる、と誰《だれ》かがいった。  このままでは春には川が氾濫《はんらん》し、水害が起こるだろう。 『では、やはり?』 『そうだな、子供を一人、山の神におくろう。あまり雪が降らぬように』  場が暗くなることはなかった。誰の子供にするか、言い出す者もいなかった。 『今年はよかったな。我《く‥レ》を引く必要もない。よそものの子供がいる』  ああ。そのとおりだ。いつもどこか遠くを見ている|奇妙《きみょう》な子供。  そうして、村の集会は何ごともなく終わった。  子供は真冬の最中《きなか》、山に運ばれ、逃《に》げぬよう神木にくくりつけられて置き去りにされた。 『おとなしくしてるんだぞ。明日になったら迎《むか》えにくる』  明らかに|嘘《うそ》だとわかる猫《ねこ》なで声でも、子供は素直《すなお》に領《うなず》いた。抵抗《ていこう》もしなかった。  役に立たなければ捨てられる。理由もなく|優《やさ》しくされることなどないことを知っていた。  寒さに凍《こご》えながらも、ぼんやりと顔を上げ、どこか遠くを眺《なが》める。物心ついたころから気づけば癖《くせ》になっていたことで、子供自身もどうしてこんな癖がついたのか、自分がどこを見ているのか、時々不思議になることがあった。  夜になり、寒さで手足の感覚もなくなり、意識が牒臆《も●フろう》とし始めた。今夜は不思議と雪が降ら  なかった。ぼくが山の神に|捧《ささ》げられたからだろうか。少しは役に立ったのだろうか。村の人は喜んでくれているだろうか……それなら、いいのだけれど。ふぅっと目を閉《と》じたとき。  耳の近くで、小さな鳥の羽ばたきが聞こえた気がした。  意識が戻《もご》り、顔を上げる。また夜具《よぞら》の遠く向こうをじっと見てしまった。  そのとき、暗闇《くらやみ》から声がかけられた。 「……お前は何を待っているんだ?」  ひどく、|驚《おどろ》いた。まさか人がいるとは思わなかった。  月明かりに照らされたその人を見て、山の神かと思った。こんな立派な衣服を着た人など、あちこち売られたり捨てられたりして過ごした中でも、一度も見たことがなかった。  なんだか|不機嫌《ふきげん》そうな顔をした山の神だな、と子供は思った。 「お前は何を待っている、と訊《き》いている」  もう一度、その若い山の神が訊いた。ものすごく偉《えら》そうだった。さすが神様。  子供はゆっくりと目を|瞬《またた》いた。不思議なことを訊く神様だと首を捻《ひね》った。別に、何も待ってなどいない。助けなどこないことも知っていたし、明日になっても誰もこないことも知っていた。気づけば次々人買いに売っはらわれる暮らしをしていて、自分でもどこの誰ともしれない。  自分がもっているのは名前くらいなもので、待つ人などいない。  だから、別に何も待ってません、と答えようとし−その刺《Jl.−》那《−一》、頭ではなく心のどこかで、それが嘘だと気づいた。   −何を待っている?  言われて初めて子供は気づいた。そうー自分は誰かを待っていた。ずっと待っているのだ。  何を。誰を。忘れてしまった。どこをたらい回しにされても、売り飛ばされても、気づけばどこかを見ていた。日々を生きることに|精一杯《せいいっぱい》で、何もかも忘れてしまった。忘れてしまったことさえ、忘れ果て。でも、確かに自分は何かを、誰かを待っていたのだと強く思った。  どこか遠くの彼方に埋《う》もれてしまった|記憶《き おく》。  わかりません、と答えた。何を待っているのか、自分でもわからない。  初めて、子供は泣いた。それが自分にとってかけがえのないものだったことに気づいた。  何ももっていない自分にも大切なものがあったのに、自分はそれさえ忘れてしまっていたのだ。どこまで愚《おろ》かなのだろう。そうして、死んでいくのだ。それがひどく悲しかった。 「お前の名前は」  少年は泣きながらぼんやり答えた。たった一つだけもっていた名を。 「コウ」  どこかで、また小さな鳥の羽ばたきが聞こえた。  輿=胤幽  静かな夜だった。  木の葉が窓を叩《たた》いて去っていく音に、絳攸《こうゆう》はふと筆を止めた。耳をすませば、夜の帳を縫《とぼりぬ》って、風が渡《わた》る音が微《かす》かに聞こえる。夏も終わり、虫たちがされいな声を響《けぴ》かせる。  ふと、奇妙な心地《ここち》がした。……いったい、今まで木の葉や風の音に筆を止めたことがあった                                ユろうか? 虫の音《 _》など、気にしたことがあったろうか? ふいに足音が、聞こえた。  ゆったりと、自信に満ちた足音で、まっすぐに吏部侍郎《りぷじろう》室へ向かってくる。  絳攸は|扉《とびら》の向こうに近づいてくる足音を、ただぼんやり聞いていた。  ……何が起こっているのか、頭の片隅《かたすみ》ではわかっていたけれど、すでに連日の徹夜《てつや》で心身ともに疲弊《ひへい》しきっていた絳攸の思考は、考えることを|拒否《きょひ 》した。  扉がひらくまでの間、絳攸がしたことといえば、ただ筆を潤《お》いたことだけだった。  潤いた瞬間、腕《しゅんかんうで》が震《ふる》えた。絳攸は自嘲《じちょう》気味に笑った。よくこんな腕で仕事をしていたものだ。  扉がひらくとき、絳攸はさっき感じた奇妙な心地の理由に気づいた。……ああ、そうか。  いつも誰かれ騒《きー 1れ》がしい吏部で、風の音や虫の音など気にする|暇《ひま》もないのに。  今日は誰の声もしない。静かすぎるほど静かななかで、侍郎室の扉がひらいていく。  その向こうで立っていた青年を、絳攸はよく知っていた。けれど、少し陛目《どうもく》した。その姿《ヽヽ1》を絳攸が見るのほ、本当に久しぶりだった。 「……楊修《ようしゅう》?」  官吏《かんり》の査定をする筆頭覆面《ふくめん》官吏として、楊修はあらゆる官位をこなす《ヽヽヽヽヽヽ》。官位の昇降格に関《しょうこうかくわカ》わる仕事は、広く顔を知られると収賄《しゅうわい》など|面倒《めんどう》が起きやすい。ゆえに吏部の考課官《こうかかん》はほんの短期で代わらざるを得ないが、楊修だけは例外だった。どこにいてもすぐ埋没《まいぼつ》してしまう。本当の彼は誰も知らないとさえ言われるゆえんだ。 「ええ、そうですよ。私です」  楊修はにっこり笑った。鼻の先にしゃれた眼鏡《めがね》がのっている。その眼鏡も、絳攸はたまにしか見ない。それに髪《かみ》がうなじでばっさり短く切られていた。 「……髪はどうした」 「先日、友人にむりやり切られましてね」 「……なんか髪の色が|途中《とちゅう》から違《ちが》うが」  はかなことを言っている、と絳攸はぼんやり思った。本当に|馬鹿《ばか》みたいだ。  まったくどうでもいい会話にも、楊修は付き合った。 「変装に髪染めを使っていたら色が落ちたんで、途中からカツラ使ったんですよ。だから毛先が茶色で、新しく伸《の》びてきたのが黒。手入れが簡単で私は気に入ってますよ」  楊修は癖のない髪をかきまぜた。その不思議な色合いは、|妙《みょう》に楊修に似合っていた。  いま秀麗が《しゅうれい》彼と会ってもまるで気づかないだろう。あの査定のとき、漂あ《ただよ》せていた凡庸《ぼんよう》さはカケラもない。造作は同じだが、表情も雰囲気《ふんいき》もまるで違う。深遠な眼差《まなざ》し、少し皮肉げに微《まま》笑《え》む薄い唇、隙《うすくちびるすき》のない貴族的な物腰《ものごし》、冷めていてもどこか人を惹《ひ》きつける声、何もかも別人だ。  端々《はしばし》に才気があふれている。今の楊修を一目見て、二度気づかない者はいるまい。 (ああ、そうか……)  絳攸は文鎮《ぶんらん》の傍《そば》に鎮座《ちんぎ》する吏部侍郎の刻印を見おろした。使い慣れた印章は手にしっくり馴《な》染《じ》む。自嘲の笑みが浮《う》かぶ。�もう自分のものだと思っていた。でも、違《ちが》ったのだ。 「……この印を、とりにきたのか?」 「ええ。他《ほか》に何を?」  楊修はあっさり肩《かた》を疎《すく》めてみせた。いつものように。ただ眼鏡につった細い鎖《くさり》が鳴る音だけが、いつもと違った。雨音が、聞こえる。そして楊修のいつもの冷めた声が。 「その|椅子《いす》に座るべきは、紅黎深《こうれいしん》を甘やかすだけのお守《も》り役ではなく、吏部侍郎《1ヽヽ1》です」  ……『吏部官らしい吏部官』のときとも、違う。一目見れば誰《だれ》もが記憶に残す鮮《あぎ》やかな容姿で、堂々と吏部侍郎室に入ってきた。すべての紗《しゃ》を剥《は》いだ本来の楊修の姿で。  絳攸が抜擢《ぼってき》されなければ、吏部侍郎になっていたはずの男。  もうお前ではだめだと、いうのだ。  だから自分が代わる、と。そのために、二度と考課官に戻るつもりのない姿でやってきた。 「今の君は吏部侍郎ではない。ただハンコ押してるだけのヒトですよ。馬鹿でもできる。ま、王も同じですがね。類は友を呼んだのか、朱《しゅ》に交《まじ》わったのか。どうでもいいが」  それには|侮蔑《ぶ べつ》さえふくまれていなかった。事実をのべているだけといった淡々《たんたん》とした言葉には、楊修が幾度《いくご》か水を向けてもまったく動こうとしなかった吏部侍郎に対しての、もはやなんの期待ももたない見限りだけがあった。 「紅黎深のお守りは及第《きゅうだい》です。|一生《いっしょう》懸命《けんめい》あやしてなだめすかして尻《しり》ぬぐいに|奔走《ほんそう》して。金魚のフソのように、よく頑張《がんぼ》ってくっついて回っていましたね。でも紅黎深のお守りと後始末が、吏部侍即の仕事ではないんですよ」絳攸は何一つ反論できずに、ただきつく唇を噛《か》みしめた。……そのとおりだった。  黎深が岩のように動かなくなってから、何をすべきか、どうしていいかもわからなくなった。  ただ積み上げられていく仕事をこなしていくことしかできなかった。 「……どうしていいかわからない? 違いますね。単に考えたくなかっただけでしょう。何《ヽ》を《ヽ》す《ヽ》べ《ヽ》き《ヽ》か《ヽ》は《ヽ》わ《ヽ》か《ヽ》っ《ヽ》て《ヽ》い《ヽ》た《ヽ》は《ヽ》ず《ヽ》だ《ヽ》。君は今まで、ちゃんとそれをしてきたはずですからね。どうして相手が紅黎深だと、できないんでしょうねぇ」絳攸の心が芯《しん》から冷えた。  つづく言葉を聞きたくなくて、気づけば吏部侍郎の印を投げつけていた。 「�それをとりにきたんだろう! 勝手にもってけばいい」  沈黙《ちんもく》が落ちた。絳攸は印を投げつけた右手をぐっと握り込んだ。楊修の視線を感じたが、締牧は顔をあげられなかった。  もう完全に楊修に見切りをつけられた。それを思えば、手足が震えた。  楊修と初めて会った時を、絳攸は覚えている。  黎深相手に一歩も退《ひ》かず、歯に衣《きぬ》着せぬ舌鋒で怒涛の猛喧嘩《ぜつぽうどとうもうげんか》を繰《く》り広げていた年上の吏部官。  楊修は絳攸に気づくと、かけていた眼鏡を外し、ちょっと皮肉げに口角をつりあげた。 『ああ、ようやく誰かさんと違って使えるのがきたかな。ま、せいぜい長くいてくれ』  楊修に吏部の仕事を一通り叩き込まれ、あちこちを飛び回る彼に仕事を押しっけられるようになり、やがてそれが絳攸の仕事に変わり、気づけば彼の官位を追い越《——》していた。  工部《こうぶ》の管尚書と欧陽《かんしようしよおうよう》侍即のように、万年喧嘩をする二人になるだろうと|冗談《じょうだん》の種にされるほど確定していた楊修の吏部侍郎就任人事。それが直前でなぜか覆《くつがえ》り、若すぎる絳攸が侍郎として認められたのは、ひとえに楊修本人が反対しなかったからだ。 『ふ……せいぜい私をうまく使える上司になってほしいものだ。少しは待ってあげてもいい。  君の査定を出すまでは、ちゃんと敬語をつかって差し上げますよ、吏部侍郎』  彼は今日、査定を出したのだ。  雨の音の合間に、かしゃんと小さな音がした。眼鏡を外し、鎖の鳴る音を棒倣はただうつむいたまま聞いた。楊修がどんな顔をしているのかはわからない。 「……君は、他にいうべきことがないんですか? いまこのとき」  いまこのとき、という言葉が、連日の徹夜で疲《一一カ》れ果て、すべての思考も感覚も|鈍《にぶ》った縫紋の心に、他人事のように遠く響いた。  そう、王はまだ藍州《らんしゅう》から帰っていない。楸瑛《しゅうえい》もいない。その間隙《かんげき》をついてやってきた楊修が.、吏部侍郎の印章を渡せという。ふざけるなと怒鳴《どな》るべきだった。あるいは楊修が何を考えているのか問いつめるべきだった。吏部侍郎の座は、そう簡単に明け渡せるような職責ではないはずだった。何よりもそれは『紫劉輝《しりゆうき.》』がもっている、数少ない力。  なのに締倣はいともたやすく印章を放《はう》り投げた。『勝手にもっていけ』と|叫《さけ》んだ。  それこそがすべての答えだった。  何が言える。経倣の口から漏《も》れたのは、ただ心身ともに疲れ切ったひと言だった。 「……ありません」  吏部侍郎の印を投げつけたとき、|一緒《いっしょ》に王の信頼《しんらい》も投げ捨てたのだ。楸瑛や、秀贋や−絳攸を官吏として信頼してくれていたすべての者を、裏切った。  たった一人のひとと引きかえに。  くたくただった。  自分が|間違《ま ちが》っていることを知っていても、何が間違っているか考えたくなかった。  どうするべきか、心の底では気づいていても、それを見つめたくなかった。  岐路《きろ》に気づかないフリをしていれば、前と同じ場所に留《とど》まっていられると思った。  だから何もしなかった。黎深が『何もしない』道を選んだことにも目を瞑《つぶ》り、ただズルズル  と先延ばしにした。待っていれば、何かが起こればーたとえば邵可《しようか》様や悠舜《ゆうしゅん》様が説教をしたり、王が帰ってきたりすれば1−ーまた今までのように。  変化が起こりつつあることにうすうす気づいていながら目を背《そむ》け、本当は何かを変えられるはずだった時間を、すべて無為《むい》にした。そうして、楊修のほうから切り捨てられた。  長い長い沈黙ののち、口を開いたのは楊修でも絆牧でもなかった。 「もうそろそろ、よろしいですか?楊修殿。私も暇ではないので」  面識はなかったが、扉Hに絳攸よりさらに若い青年が立った。年齢《ねんllい》と言動で絳攸は察した。   −監察御史《かんきつぎょし》・陸清雅《りくせいが》。  異名《・小たつな》を『官吏殺し』。絳攸を見る眼差しに、一片《いrJへん》の敬意とてない。  絳攸はのろのろと立ち上がった。もう何も考えたくなかった。楊修の前にいたくなかった。  なんでもいいからこの場から立ち去りたかった。  すれ違うとき、楊修は短く訊《l、》いた。 「そんなに|呆気《あっけ 》なくあきらめるのか、君は」  楊修から|一切《いっさい》の敬語が消え失《う》せた。これが本当に最後通牒《さいごつうらよう》だと、なけなしの理性の片隅《かた寸み》で、なんとなくわかった。これに何か答えれば、何かが変わったかも知れなかった。けれど繚牧の思考のほとんどは、もう何もかも、考えることそのものを|拒否《きょひ 》していた。  絳攸は何も答えなかった。楊修の顔も見ず、ただすれ違った。 「無様だな一楊修が冷ややかに|呟《つぶや》いた。 「�翠《−》経倣殿、吏部の件について取り調べるため、|貴殿《き でん》を拘束《こうそく》させて頂きます」  清雅の声とともに、吏部侍郎室の扉が《とぴら》閉まる。その瞬間、《しゅんかん》絳攸は楊修を掛《・h》り返った。けれど楊修は二度と振り返らなかった。まるで絳攸など最初から存在しなかったかのように、吏部侍郎室が楊修を迎《むか》えるのが見えた。その瞬間、絳攸の居場所は消え失せたのだった。  吏部の中から、そして尊敬し、信頼していた楊修の中からも。   ーその日、絳攸は取り調べという名目のもと、投獄《とうごく》されたのだった。       ・翁・器・  紅州《こうしゅう》�紅本家で、彼女は義弟《おとうと》に差し出されたその報告書に日を通していた。  女性の歳は三十半ばほど。少し癖《くせ》のある長い髪《かみ》と、瞳《ひとみ》に見え隠《かく》れする意志の強さが印象的な美女だった。騰《ろう》たけた面差《おもぎ》しをしているのに、どことなく中性的な雰囲気《ふんいき》を感じさせる。  すぐそばでは、彼女の義弟が気難しい顔で返事を待っている。  読み終わった彼女は、額を押さえて嘆息《たんそく》した。すかさず義弟が返事を求めてくる。 「……百合義姉《ゆりあね》上」 「はいはい、わかってる。若いんだから、眉間《みけん》の敏《しわ》を消しなさい玖琅《くろう》」  義姉上と呼ばれた彼女は、玖娘の眉間を遠慮《えんりょ》なく人さし指でぐりぐりもみほぐした。玖娘は眉間をさすったが、嫌《いや》な顔はしなかった。  黎深の妻であり、絳攸の養い親である彼女は、もう一度報告書を見た。 「……藍家といい、中央といい、私が仕事であっちこっち飛び回ってる間に、一気にコトが進んだわね。黎深が動けば、いくらでも時間稼《かせ》ぎができたのに。追い込まれたわね。……まあ、あの政事に無関心な黎深が動くわけがないけど……」 「兄上は王家が嫌《きーり》いですから」玖娘は眉間に敏を刻んだ。百合ほ|真面目《まじめ》な義弟を眺《なが》めた。本当は玖琅のほうが官吏になるべきだったのだ。彼なら官吏として、感情に左右されず、己《おのれ》の立場と責務を自覚し、王の傍《そば》で国と民《たみ》のために尽《つ》くしただろう。でも、そんなことを今さら言っても仕方がない。百合だって、黎深が国試を受けるとき、|大丈夫《だいじょうぶ》かコイツと思っても止めなかったのだから。            めいも′\   百合は瞑目した。  それぞれが、見て見ぬふりをしてきたツケを払《はら》う時がきたのだ。それは百合自身も。 「玖填、しばらく私が紅家の仕事をしなくても大丈夫ね?」 「はい。……兄と絳攸を、どうかお願いします」  深々と頭を下げた玖娘に、百合は瞳を揺《ゆ》らした。  誰《だれ》よりも一族を愛し、二人の兄を愛し、血の繋《っな》がらない絳攸をすぐに甥《おい》として認めた玖填。  三兄弟で、いちばん|優《やさ》しく、いちばん強く、情も懐《ふところ》も深い青年だと、百合は知っている。  百合は玖境の鼻をきゅっとつまんだ。本当は、今すぐ飛んでいきたいと思っているだろうに。 「……バカね。私の旦那《だんな》と|息子《むすこ 》のことだもの。当然よ。お願いしますなんて言わないの。……さあ、すぐに貴陽《きょう》に発《た》つわ。でないとあの二人、ひとりばっちになっちゃう」本当は、一人になるのが嫌いな二人。  二人一緒だからいいだろうと思って、黎深と絳攸を置いて飛び回っていたけれど。  百合は立ち上がりながら、イヤな音を立てる心臓に手を当てた。指が小刻みに震《ふる》えていた。   −ずっと一緒にいるべきだったかもしれない。不意に百合は強い|後悔《こうかい》に|襲《おそ》われた。  あの二人は、二人でいても、ずっと一人のままだったのかもしれない。  それぞれ、愛することも、愛されることも、いちばん苦手な二人だったから。  確信が持てないから、誰かに強く依存《いぞん》する。何か証《あかし》を立てないとダメだと思っている。  だからいつまでも、自分のことを後回しにしてきてしまった。 (お願い王様、悠舜さん。私が行くまで、二人を切り捨てないで。いらないって、いわないで)誰かに捨てられること、好きな人に置いてけぼりにされること。それは、あの二人がいちばん恐《おそ》れていることだから。       ・態・翁・  劉輝は深呼吸をし、|宰相《さいしょう》会議が開かれる政事堂の|扉《とびら》の前に立った。中には旺李《おうき》やリオウ、羽《う》  羽《う》、霄太師《しようたいし》や宋太博《そうたいふ》が待っているはずだった。絳攸の件もだが、何よりも劉輝は王としての責務を投げ出したことに対して、謝罪をしなくてはならなかった。  扉が開かれ、先に悠舜が入る。  劉輝は息を吸い込み、一歩足を踏《ふ》み入れた。  瞬間、《しゅんかん》劉輝ほどリビリとした威圧《いあつ》を感じ、思わず足を止めた。  見回せば、誰もが劉輝を見ていた。先王が 「まず顔を見せろ」と脆拝《きはい》での出迎《でむか》えを政事堂で禁じてから、劉輝はこの室《へや》に入るときはいつも、こうして皆《みな》の視線に出迎えられてきた。だからその光景は以前と同じはずだった。けれど劉輝は初めて、その視線を意識した。  大官たちにどう見られているか、どんな王に映っているのか、何を求められているのか。それをまったく気にしなかった今までの自分を恥《よ》ずかしく思うほどに、彼らの視線は強かった。  彼らはずっとこうして劉輝を見ていたけれど、劉輝の目は彼らを素通りしていたのだった。  劉輝はリオウに目を留めた。相変わらず夜の森のようなしんしんと深い黒瞳《●しくとう》だった。  この夜の森で、劉輝は迷子になった。 『王としてか、紫劉輝としてか』  劉輝はぐっと址《はら》に力を込め、あのときの答えを出すように潔《いさぎよ》く謝った。もう、逃《に》げない。 「藍州行きの折、皆に負担をかけたことを申し訳なく思う。二度と軽率《けいそつ》な振《ふ》る舞《ま》いはしない」宋太博は少し目を和《なご》ませ、霄太師も小さく笑った。リオウと旺李も軽く|眉《まゆ》をあげた。  |溜息《ためいき》をついてまず口火を切ったのは、その旺李だった。 「……まずはご無事のお戻《■t−と》り、何より。ところで十三姫《いし通叩ょJ■こ′ハ¶U」麟》を筆頭女官にするそうですな」 「あ、ああ! そ、そうなのだ。それで−」 「それだけ聞けば結構。で、藍州での収穫《しゅうかく》は? 藍姓《せい》官吏はいつ戻ってくるのですか」  劉輝は言葉に詰《つ》まった。 「それは−」 「藍家当主と何か話は交わしたのでしょうな?」  Tjて  ! 「藍楸瑛は藍本家から勘当《かんごう》されたそうですが、事実ですか」 「そ−」  旺李の鋭《するど》い眼差しは、劉輝から次々と答えをすくいだした。  眉間《みけん》にきつく敏《しわ》を寄せると、旺李は深々と溜息をついた。 「……まったくの手ぶらですか。なんのために藍州まで行ったのか、あなたは」 「轍嘆を−」 「馬鹿馬鹿《ぼかぼか》しい。藍家を勘当された|一般《いっぱん》人が、朝廷《ちょうてい》にとって何の価値があります。�花″を返上して自分から出ていったあげく、藍姓官吏の手土産《みやげ》ももたず、藍家の力も使えず。まさか復職させるおつもりはないでしょうな」リオウも夜の森のような瞳をいっそう|沈《しず》ませた。 「……これで藍家直系が中央からいなくなったか……藍本家との繋《つな》ぎが完全に切れたな」  劉輝の心が振り子のように揺《ゆ》らいだ。藍家を帰順させるつもりで行ったわけではなかったが、口に出せば単なる言い訳にしか聞こえない。貴陽に帰ることを優先したが、やはり藍家当主と会って話をすべきだったかもしれない。だがそれでは玉座が空いたままになる−。  リオウは王の表情を察し、言を継《つ.》いだ。 「……まあ、藍家があてにならないのは今に限ったことじゃない。気にするな。だが藍概瑛をあんたの力で将軍職に戻すのはやめたほうがいい。|寵愛《ちょうあい》人事になる。……あんたは少し、自分の好きな人間に気をとられる傾向《けいこう》がある。少しずつでいいから、直した方がいい。好き嫌《きら》いがあるのは仕方ないが、嫌いな方のとりこぼしが多くなる。それはあまりいいことじゃない。あんたの仕事は、なるべく多くを掌《てのひら》にのせることなんだから」劉輝には返す言葉もなかった。これでは本当に、自分とリオウとどちらが王だかわからない。  いったいリオウは、そうしたことをどうやって学んできたのだろう。 「皆様は性急にすぎまする。陛下のご無事のお戻りだけで喜ぶべきことでございましょう」  羽羽がちょこちょこと劉輝に近づいた。劉輝はホ? リと涙が《なみだ》出そうになった。が。 「藍州にて十三姫とは仲良くなれましたか? 筆頭女官でなく、妃《きさき》になきらないのですか」 「ううっ」  わくわくとした声音《こわね》に、劉輝はのけぞった。だが同時に、ここで十三姫を正式に妃に迎《むか》えると宣言すれば、藍家との縁《えん》は切れないのだと不意に気づいた。  もしかしたら、王としてそうするべきなのかもしれない。藍州で秀麗に伝えたとおり、その  覚悟《一へ.‘、1J》も半分決めてある。けれど劉輝はまだ、一絆《ト▼ ■一ノ瑚》の望みに賭《■ら》けてみたかった。 「も……もう少し……考える時間をくれ」 「そうですか……。では陛下……藍州にて、何も変事なぞございませんでしたか?」  リオウと旺李の眼差しが一瞬鋭《するど》くなった。  劉輝は繚瑠花《ひようるか》に会ったことを思いだした。だがまさかこの場で、彼女に殺されかけたなどとは言えなかった。リオウの血縁《けつえん》であるし、羽羽もまた繚《ひよう》家とは関係が深い。劉輝の|記憶《き おく》では、羽家は確か辟門一族のはずだった。 「いや……たいしたことは、何もなかった」  羽羽は真っ白な|眉毛《まゆげ 》で覆《おお》われた目で、じっと劉輝を見上げた。それでも劉輝が何も言わないとわかると、ややあって、ゆるゆると頭《こうべ》を垂れた。劉輝にしか聞こえない噴《さきや》きをこぼす。 「……陛下は……本当にお優しゅうございまするな」  劉輝が反駁《はんばく》する前に、羽羽は劉輝の手をとった。そのとき、劉輝の体に小さな痔《しば》れのようなものが走った。それはほんのごく|僅《わず》かで、劉輝が気のせいと片づける間に羽羽は手を離《はな》した。 「では主上が《しゅじょう》ご不在の間の案件につきましてー」  悠舜は、春に碧歌梨《へきかりん》に委託《いたく》した新貨幣鋳造《かへいちゆうぞう》においての意匠《いしょう》が決まったことや、その他いくつかのことを話したあと、緯倣拘束《●�つーてく》の件について話し始めた。       ・翰・線・  宰相会議が終わったあと、旺李は葵皇毅《きこうき》を|執務《しつむ》室に呼び、人払《ひとぼら》いをした。 「……まったく甘いな、あの王は。いや、主従そろって甘すぎる」  旺李は|呟《つぶや》いた。宰相会議にて、王は攻守《こうしゅ》が逆転するほどの駒《こま》をもっていながら、打たなかった。羽羽の問いに、九彩江《きゅうきいこう》で何があったか正直載答えれば、李絳攸の件など問題にもならなくなったろうに。旺李は九彩江で何があったか、司馬迅《しばじん》からの報告で知っていた。  繚家が王を殺すよう命じたことをあの場ではっきり言い、御史大夫《ぎよしたいふ》の皇毅に捜査《そうさ》を命じれば、王殺しだ。李絳攸の件など比でもない。結果、ゆかりの深いリオウや羽羽の首も文字通り胴《ごう》から離れるだろうが、標瑠花の|行為《こうい 》からすれば当然だ。何より王にとって貴重な時間稼《かせ》ぎになる上、李絳攸を救い出せる機会さえあったかもしれなかったのに、あの王は情を優先した。 (だが、前よりはマシな顔になったか)  顔つきから甘ったれたところが少し抜《ぬ》けたと旺李は思う。 (……それにしても、標瑠花の言動は危うすぎる……)  旺李の眉間に深い敏が刻まれる。彼女の行動一つで何もかも狂《くる》ってしまいかねない。  とにもかくにも藍家は藍称嘆を切り、王や朝廷と一線を画した。次はもう一つの筆頭名門。 「このまま李降牧を落とせ。あとは暢修に任せろ。うまくやるはずだ」 「はい」  旺李は目を閉《と》じた。時の彼方《かなた》から、過ぎ去ったはずの声が響《けび》いてくる。 『俺が王だ。俺に脆《ひぎまず》き、俺に従え。それが気に入らなければ、お前が玉座を|奪《うば》うんだな』  覇王《はおう》と呼ばれた男が逝《い》ってから、気づけば何年もの月日がたっていた。 「……皇毅、なぜお前を御史大夫に据《す》えたのか、わかっているな?」 「ええ」 「ならいい。お前はお前のするべきことをしろ。さあ、もう行きなさい」  皇毅は一度出て行ったが、すぐに戻ってきた。何やら皿や壺《つぼ》を抱《かか》えている。旺李が|訝《いぶか》しげに|眉《まゆ》を畢《ひlそ》める前で、皇毅はちやくちゃくと壺から皿に何かを盛った。旺李はそれに見覚えがあった。藍鴨《あいがも》のタマゴの漬物《つけもの》だ。この藍鴨のタマゴほ滋養があるので有名だった。 「どうぞ。このごろ、食が細いとのことでしたから」 「年のせいだ」 「そうですか。理由はどうでも、召《め》し上がるまでここにいますので」  皇毅の威圧《いあつ》が増した。旺李は苦み走った顔を引きつらせた。やるといったら皇毅はやる。三日でも四日でも食べるまでクマゴの漬物をもってあとをくっついてくるはずだ。  想像した旺李はいやになった。マヌケすぎる。だからしぶしぶ箸《はし》に手を伸《の》ばした。久しぶり  に食べた藍鴨のタマゴは、懐《なつ》かしい味がした。 「……これは、あの娘が《むすめ》藍州からもって帰ってきたものか?」 「ええ。これなら召し上がるだろうと孫陵王《そんりようおう》殿が」 「ばかもの。あいつの戯言《たわごと》など右から左に聞き流せ。余計なことしか言わん」  旺李はますます苦い顔をした。けれど手を止めることなく、ゆっくり一皿たいらげた。  この室《へや》を出れば、皇毅はまた御史大夫に戻《もど》らねばならない。 「……ゆっくり召し上がってください。喉《のご》に詰《つ》まってポックリ逝《紬》かれても困りますので」  常に余計なひと言がくっつくのが皇毅だった。旺李はガクッとした。無衷情にいうな。 「…………答太師あたりにいってやれ。せっかくのクマゴがまずくなる」 「なぜ。霹太師がぽっくり逝くのは望むところです。そんな親切をする気はありませんね」  皇毅はムッとした。本当に親切だと思っているらしい。相変わらず少しずれている。旺李は小さく笑いながら、もう一度標瑠花を思い出した。手段を選ばず、あらゆる|隙《すき》を見逃《みのが》きぬ女。  繚増花がでてきたことが、旺李は|妙《みょう》に気にかかっていた。だが繚瑠花は自分本位に動くにせよ、タチの悪いことにバカではない。九彩江は標家の縄張《なわば》りだが、ここは貴陽。しかもいま、旺李の那厨をして得なことは何もない。あの女が何かしでかそうにも何も−。 (……いや、そういえば昔−) 「……皇毅。李絳攸は無事なんだろうな?」 「無事、とは? 放《はう》りこんであるだけで、拷問《ごうもん》など|一切《いっさい》しておりませんが」 「わかっている。ただ、繚《ひよう》家が動きはじめたことが少々な。……お前は知るまいが、昔、こういうときにあの家が使った手があることを思いだした。……まさかとは思うがな……」 「暗殺ですか」 「それがいちばん手っとり早いと思っているのは確かだろうが、邪魔な官吏を確実に追い落とそうと思えば、繚家にとっては殺すより簡単な方法がある」旺李は箸をカラになった皿に置き、簡潔にその方法を伝えた。 「精神を壊《こわ》す。もしくはそれに近い精神状態にする。……やるかもしれん」  皇毅は御史大夫の顔に戻り、しばらく考えた。ややあって、薄い色の双畔《そうぼう》を笑ませた。 「もしそうなら、むしろ都合がいいですね。とりあえず清雅には伝えておきましょう」       ・巻・翁・ 「羽羽……九彩江で、本当に伯母上《おぼうえ》は王に何もしなかったと思うか?」  羽羽を負ぶって仙洞《せんとう》省に戻ると、リオウは開口一番にそう訊《き》いた。  王と秀麗が無事に帰ってきたことにリオウはホッとしていたが、同時に|奇妙《きみょう》な不安もあった。  あの権謀術数に長《けんぼうじゅつすうた》けた伯母が、やすやすと帰したことが気にかかる。九彩江は仙洞省の管轄《かんかつ》だ。  何事かあれば藍州府から報告があがってくるのだが、まだリオウの手元には届いていない。王が神速の藍家水軍で|帰還《き かん》したため、情報のほうが|遅《おく》れているのだ。 「……でも、ここは貴陽だしな……いくら伯母上でもたいしたことはできないはずだ」  リオウは自分に言い聞かせるように呟いた。そうであってほしいと思う自分を、リオウほ奇妙に思った。この感情ほなんなのだろう。自分ほ単なる繹家の駒にすぎないはずなのに。  その時、羽羽がハッとしたように顔を上げた。拍子《ひlようし》に、真っ白な長い髭《ひげ》が揺れた。  リオウは嫌《いや》な予感がした。 「……羽羽、何か思い当たることがあるのか?」 「そういえばい草…‥李侍郎殿が牢《ろ、つ》に囚《←−ら》われておりまするな……」  思わぬ名に、リオウの黒瞳《−Jくと、つ》が丸くなった。李侍郎?なぜ李侍郎の名が出てくるのか。 「……それがどうしたんだ? あれは別に不当に拘束《,】よノそく》されたわけではないだろう」  羽羽の脳裏に、昔の忌《——.ヽ》まわしき記憶がかすめた。それをリオウに伝えるのは情けなく、つらいことだった。けれどリオウはこれからの繚一族を担うべき人間だった。  そ《ヽ》れ《ヽ》を瑠花が画策したかどうかは、まだわからない。けれど、羽羽の予想が当たるとしたら、事前に防ぐのはもはや不可能だった。そうして、羽羽は重たい口をひらいた。  瑠花のくすくすという笑声が聞こえるような気がした。      ■■書▼紅の火種  秀寅は亡《な》き母の眠る小さな山に立って、貴陽を見おろしていた。  藍州へ行っている間に夏が終わり、母の命日も過ぎてしまった。  墓は、静蘭《せいらん》が|綺麗《き れい》にしてくれていて、手摘《てづ》みの花と線香《せんこう》が供えられていた。  一緒にきた邵可は先に帰り、いま秀麗の傍《そば》には静蘭と燕青《え人せい》だけがいた。  秀麗は二人にちょっと笑っただけで、何も言わなかった。それから貴陽を見渡《みわた》せるその場所で、いつまでもただ立ちつくしていた。秀麗は二人に声をかけようともしなかったし、実際、そこにいることさえ時々本当に忘れた。  それこそ影の長さが変わるほどの時間がたって、秀贋は|唐突《とうとつ》にいった。 「ね、二人とも覚えてる? 二年前、今日みたいにここで|一緒《いっしょ》にお墓参りしたわよね」  眠るように木の根本で目を閉じていた燕青はバチッと目を開けた。静蘭もふと顔を上げた。  視線を向けても、二人には腕組《うでぐ》みする秀贋の横顔しか見えない。  秀麗の視線は二人を見ることなく、貴陽にそそがれたままだった。  あのときの燕青は実は茶州州牧《きしゅうしゅうぼく》で、秀麗は男装して戸部《こぶ》の侍億《じどう》として走り回っていた。  国試を受けたかったけれど、女の子は受けられなくて。それでもあきらめされずに締牧に師事して毎晩書物をめくっていた。そんな秀麗に邵可と静蘭がおにぎりをにぎってくれて、それをもってきてくれた燕青と、ぽつぽつと謡をしていたころ。  たった二年前のことなのに、もう遠い昔のような気がする。  あの夏、女人《によにん》国試が許可されて、秀麗は官吏になった。  この母の墓前で、たった一度だけ与《あた》えられた機会を頑張《がんば》りぬくと決めた。  そしてもう一人−。  必ず同じ場所まで行くと|誓《ちか》ったひとがいる。秀麗が目指すその先にいた人。  秀麗に、叶《かな》わなかったはずの道をひらいてくれたひと。  その人から学び、教えを受け、その人のあとを追いたいと思った。がむしゃらに上にあがったその先で、必ず待っているといってくれた。   −必ず。  秀麗は目を閉じた。 「静蘭、さっきの話、本当なのね? 緯倣様は本当に御史台に拘束《こ■つlてく》されたのね」 「はい。お嬢様《じょうさま》たちが|帰還《き かん》される少し前に」 「藍将軍の次は李侍郎さんか。慌《あわ》ただしいなー」  燕青の言葉に、秀麗は髪《かみ》をぐしゃぐしゃとかきまぜた。  藍州に行く前に、清雅が秀麗を見て鳴《わら》った意味がわかる。   |容赦《ようしゃ》なく次々と先手を打ってくる。でも、まだ間に合う。 「�今から登城してくるわ」       ・翁・翁・  劉輝は悠舜の|執務《しつむ》室で、玉座を空けていた間にあがってきた案件に目を通していた。仕事に集中しようとしたが、ともすればつい絳攸のことを考えてしまう。無意識に言葉がこぼれた。 「余がもう少し早く帰っていれば−……」   傍《そば》で輔佐《はき》をしていた悠舜が、やわらかに訊いた。 「いれば? 緯倣殿を王の力で助けましたか?」   劉輝は口ごもった。 「吏部は……今の吏部は、経倣なしではやっていけないだろう。拘束されたら吏部の機能が」自分でも言い訳がましく聞こえ、尻切《しりき》れトンボで言葉尻《ことばじり》が消えた。  劉輝は悠舜と目を合わすことができなかった。うつむけば悠舜の小さな|溜息《ためいき》が耳に響《ひび》いた。 「……だ《ヽ》か《ヽ》ら《ヽ》、御史台が動いたのですよ、我が君」   尚書がちゃんといるのに、侍郎の絳攸がいなくては吏部が機能しない。  それは異状以外のなにものでもない。だから御史台が動いて、正規の手順を隊《hわ》んで取り調べに値《あたい》する|証拠《しょうこ》を積んで、悠舜に拘束許可を求めてきた。劉輝でも拒否はできなかったろう。  本当はわかっている。それでも劉輝の口からは、あきらめの悪い批難がもれてしまった。 「でも、今までほほったらかしにしてきたくせに……」 「ど《ヽ》ち《ヽ》ら《ヽ》が? その状態をずっとほったらかしにしてきたのは吏部ですか、御史台ですか?」劉輝は言葉を失った。悠舜が尚書令《しhやつしよれい》として着任する前まで、何一つ変わらなかった吏部。  悠舜はやわらかい声で、けれどきびしく追及《りいきゅう》した。 「主上《しゅじょう》は、吏部は今のままでいいと思っていらっしゃる、ということですか?」  劉輝は唇を噛《か》んだ。藍州で、瑠花という女にいわれたことが|脳裏《のうり 》にめぐる。 『今のままで|充分《じゅうぶん》と、与えられたものを与えられたまま。ただ玉座に座り、日々机案《つくえ》に積まれる仕事をただ惰性《だせい》でこなしておっただけ』それは−それは絳攸もそうだと、いうのだ。そして侍郎だけでなく、尚書も。 「……悠舜は、今のままではいけないと、いうのだな」 「ええ。そう思います」 「……相手が黎深殿でも?」  沈黙《ちんもく》は、一瞬《いつ.し紬ん》にも満たないほどの間。  悠舜に動揺《どうよう》はなかった。たったひと言で答えとした。 「私は尚書令なのです、主上」  うつむいた顔を上げれば、悠舜は相変わらず|優《やさ》しげに|微笑《ほほえ》んでいた。  けれどなぜだろう。いつもと変わらないはずのその微笑《ぴしょう》が、なぜか悲しげに見えた。 (悲しくないわけがない)  相手は黎深なのだ。劉輝は手をのはし、その頬《はお》にふれた。 「……すまなかった。余が……何もしなかったから。つらいことをさせる」  悠舜は|驚《おどろ》いたような顔をした。束《つか》の間、どういう顔をするべきか遽巡《しゅんじゅん》する表情が閃《ひらめ》いたが、それは劉輝が気づく前のほんの一瞬で、結局悠舜は苦笑いを選んだ。 「つらくはありません。主上……私は多分、主上が思うほど優しくなどないのですよ。優しいだけの人間に、政事はつとまりません。尚書令もね」そんなことはないと劉輝は思ったが、言葉には出さなかった。 「……絳攸は、どうなる? もう葵長官の決定は覆《′うlポえ》らないように見える」 「投獄《とうごく》されたとはいえ、逮捕《たいほ》されたわけではありません。まだ取り調べ段階です。もともと経倣殿は有能実直で知られていますし、収賄《しゅうわい》などのlわかりやすい罷免《けめん》材料もない。罪ではなく、経倣殿の侍即の資質の有無《うむ》を問う、という方向でくるでしょう。経倣殿と、秀麗殿次第《しだい》です」秀麗の名に、劉輝は顔を上げた。 「御史台主導の捜査で、相手が官吏殺しの異名をとる陸清雅殿では、確かに決定をひっくり返すことは難しいですが、御史台には秀麗殿がおります」劉輝は目を閉《と》じた。  臣を育てることもしなかった、と劉輝は藍州で繚瑠花に言われた。その通りだ。いつだって劉輝はすでに官吏として完成している誰《だれ》かに頼《たよ》るばかりだった。  けれどたった一人。劉輝のために官吏になってくれた者がいる。  この二年、自分のしたことで何か実を結んだものがあるとしたら、秀麗を官吏にしたことかもしれない。そしてそれは皮肉にも、秀麗が劉輝を拒絶《きょぜつ》しっづけたゆえの結果でもあった。  ……官吏としての秀麗は、劉輝の予想より遥《はる》かに有能で、使いやすすぎた《ヽヽヽヽヽヽヽ》。  劉輝が秀庫を使えば使うほど、官吏としての彼女がなくてはならないものになっていく。  それでも、劉輝の答えはたった一つしかなかった。それを情けないと初めて彼は思った。 「そうだな……秀麗しかいないな」  悠舜はまじまじと劉輝を見つめた。どこか面白《おもしろ》そうに優しい睦を揺らす。 「主上、一度も絳攸殿に会いにいくとおっしゃりませんね?」 「行く。�溜《た》まっている仕事がすべて終わったら」  悠舜ほ|微笑《ほほえ》み、領《うなず》いた。ふと窓を見た。  墨《すみ》を流したように、白雲に黒い筋がまざっていく。 「……雨になりそうですね」  悠舜ほ小さく眼を細めた。  悠舜の執務室を出た劉輝は、おや、という含《ふく》み笑いを聞いた。  顔を上げれば、向こうからやってくる凌皐樹が《りょうあんじゆ》劉輝を見て笑っていた。 「主上は本当に、|宰相《さいしょう》殿がお気に入りですね。仲がよろしくて、微笑ましいことです」 「凌黄門《こうもん》侍郎……」  そのやわらかな声音《こわね》にも、微笑にも、何の含みもない−ように見える。  劉輝は先日の藍州行きを思い、ぎゅっと拳を握《こぶしにぎ》りしめた。まだ……遅《おそ》くはない。 「このあいだは……軽率《けいそつ》な振《ふ》る舞《圭》いをした」 「確かに、そうですね。でも、宰相殿がお許しになったのでしょう?」 「そうだが……」 「では、宰相殿の責任、ということです」 「それは違《ちが》う! 余が勝手にー」 「陛下」  蜃樹が微《かす》かな溜息をついた。まるで何も知らない子供を諭《さと》すような苦笑が渉《にじ》んでいた。 「陛下は邸《てい》悠舜について、何をどのくらいご存じなのです? 仕官する前、彼がどこで、何をしていたか、ご存じではないでしょう。抹消《まつしょう》されてますからね」 「え……?」 「彼は確かに有能です。悪党の裏をかくくらいたやすいほどに。それは茶州での実績が証明しています。でもね、陛下。悪党の裏をかくのほ、賢《かしこ》くて優しいだけの人間には無理です。同じ悪党でなければね」いったい凌曇樹は何を言い出すのかと思った。 「少なくとも、単なる優しいだけの人間には、第一線の政治家は到底《ゝ——つイ、−■》務まりません。茶州で十年、筋金入りの悪党どもを相手に生き残り、茶州府を建て直すことも不可能です。でなければ先王陛下も、彼を選んで茶州に送り出したりはしませんよ。そうではありませんか?」劉輝は答えなかった。是とも否とも答えられるわけがない。曇樹は影《かげ》のように笑った。 「……あまり彼の意を用いすぎて、あとでとんだことになっても知りませんよ、ということです。藍州に行ったのは|間違《ま ちが》いだったというなら、それは宰相殿の判断が間違っていたということです。彼が何を思って藍州行きを許可したのかはわかりませんが、そのせいで主上が現在どういう状況に陥《じょうきようおちい》っているのかは、一度考えるべきでしょう」ふと、蜃樹の表情から束の間、いつもの謎《なぞ》めいて人をからかうような微笑が消えた。 「陛下、貴族制も壊《こわ》れかけ、古き良き時代の、ただ王であるというだけで、忠誠を|誓《ちか》ってくれる股肱《ここう》が集《つご》う時代は終わろうとしています。国試制がはじまり、実力主義となった今、|隙《すき》があれば誰かに蹴落《けお》とされます。今の李緯倣殿のようにね」劉輝は弾《はじ》かれるように顔を上げた。 「強く、締麗な魂《されいたましい》のまま、信念と正義をもってあなたに忠誠を誓ってくれる味方がほしければ、あなたがそれを見極《みきわ》め、守らなくてはなりません。また、あなた自身が、そんな臣下が集う主君にならなくてはなりません。そうでなければ、いつのまにか私みたいな悪党ばかりしか残らない……ということになりますよ」 「凌黄門侍郎……?」 「おやおや。我ながら、ずいぶんとらしくないことを申し上げたものです」  蜃樹は、ふ……と苦笑いした。 「……今のは、私がこの世でいちばん愛する人の口癖《くちぐせ》ですよ。もう二度と言いませんがね」       ・翁・鴇・  楸瑛は久しぶりの朝廷《ちょうてい》を、足早にある宴《へや》へ向かって歩いていた。その腰《こし》にほかつて楸瑛自身で返上した�花菖蒲《はなしようぷ》″の剣《けん》が|侭《まま》かれている。貴陽に帰還してすぐ、王から渡《わた》されたのだ。   さすがに、不覚にも言葉を詰《つ》まらせた。楸瑛は無言で|膝《ひざ》をつき、剣を受けた。  今度は身一つの藍楸瑛自身として。そしてもう一人−。 (やっぱり絳攸は間に合わなかったか……)  楸瑛は一つ気にかかることがあった。|一緒《いっしょ》に貴陽まできた龍蓮《りゆうれん》はまたどこぞへフラフラ出かけたが、その際、楸瑛にポソツと呟いたのだ。 『……鰍兄上の友……気をつけたほうがいい』  牢の絳攸に会いにいくまえに、楸瑛には行くべき場所があった。なぜか楸瑛が羽林《うりん》軍将軍職を辞したことはあまり知られていないようで、実は無職の身にもかかわらず、ほとんどの衛士は楸瑛の顔を見てすんなり通してくれ、意外と楽にその室の前まで辿《たど》り着くことができた。 「−孫兵部《へいぶ》尚書、藍楸瑛です」  ピコピコと、楸瑛をバカにするように目の前で煙管《させる》が揺《怜》れる。  この人にはあんまり会いたくなかった、と楸瑛は内心ぶつぶつぼやいた。 「さーて、何の用かね? 藍家の|坊《ぼっ》ちゃん。……じゃ、なくなったんだっけな。仕事やめたあげく家戻《もご》ったら勘当《かんどう》されて惚《ま》れた女にもふられて、無職で文《もん》なし宿なし。貴公みたいにぷ〜らぷらしてる今どきの若いモソを穀潰《ごくつぶ》しつつ一んだぞ。くくく。かっちょわりー。恥《は》ずかしー」兵部尚書・孫陵王に開口一番バカにされ、楸瑛は返す言葉が何もなかった。その通りだ。 (……しかし昔と全っ然変わってないなこのひとは……)  孫尚書が藍州州牧《らんし抄うしゅうぼく》だった時代を楸瑛は知っている。あの頃《ころ》から楸瑛ほ孫尚書がちょっぴり苦手だった。今まで周囲にいた『大人《おとな》』とあまりにもかけ離《はな》れていたからだ。楸瑛と迅を見ると寄ってきて、散々くだらない嘘《_つすで》をふきこみ�−�梅《ウメ》の実を食ったときは 「ウメー」っていわないと女にもてないんだぜとかいわれて茶屋で実行したら、女の子が誰もいなくなったのは忘れられない——楸瑛が憤然《ふんぜん》と|抗議《こうぎ 》にいったら大笑いしたあげくまた遊ばれた。藍本家でもまったく動じない浪《こ》ゆい顔のへソなオジサン。それがこの国でも最高位の大官《たいかん》である藍州州牧と知ったときは、この国は終わりだ、ぼくがなんとかしなくちゃと本気で思ったものだ。 「……もういい歳な上に兵部尚書なんですから、もうちょっと|威厳《い げん》を取り繕っ《つくろ》たらどうですか」 「アホか。取り繕わんと漂《ただよ》わん程度の威厳なんざ、すかしっ屈《ぺ》みたいなもんだ。あったら周りの迷惑《めいわく》。ないほうがマシってな。俺の醸《かも》しだす威厳がわからんやつは半人前だぜ、ポーヤ」  にや、と笑って煙草《たぼこ》の入っていない煙管を噛《か》む姿は実にいなせ《111》でかっこいい。ものすごく悔《くや》しいが、楸瑛が同じことをしても全然サマにならないだろう。確かに孫尚書は威厳がないわけではない。むしろどんな言動をしても締願《されい》にはまる。彼の気ままな言動はよくうるさがた《ヽヽ11ヽ》から苦言を呈《てい》されるが、実は貴族的ではないだけで、彼一流の風格と立ち居振《いふ》る舞いは、それこそ生粋《きつすい》の貴族である旺李と並んでもまったく見劣《みおと》りがしない。現に楸瑛も負けている。  楸瑛がわざわざ彼を訪ねたのはもちろん理由がある。 「私が藍州で惚れた女性に振られたなんてよくご存じですね」 「おいおいなんだ、本当に振られてたのかお前。あはははは!!」  孫陵王は大笑いした。楸瑛はぶるぶる震《ふる》えた。楸瑛が珠翠《しゅすい》に振られたーでもまだ告白してないから別に振られたわけでほないのだ,−つことを知っているとすれば、それはあの場にいた司馬迅や繚家と孫陵王が、なにがしかの関《わカ》わりがあるという証《あかし》になるのに。  が、孫陵王は少しも読ませなかった。自雷炎《はくらいえん》と似ているようで、決定的に違う。あけっぴろげに見えて、決して艦《はら》のなかを読ませない。 「孫尚書」 「ハイハイ、ダメダメ。ボーヤほおうちに帰んな」 「まだ何もいってませんよ!」 「将軍職返せっつーんだろ。ばかいうな。お前、自分からやめたくせに、ノコノコ戻ってきてまた再就職させてくださいなんて、この世知辛《せちがら》い今の世の中でソな甘い話通ると思ってんのか。  甘い。甘すぎる。この杏子《虎′ハ」了》の飴玉《一ぼ1既rへま》のほうがよっぽど酸《寸》いも甘いもかみわけてる」  孫尚書は境拍色《こはくいろ》の飴玉を楸瑛に放《ほう》り投げた。楸瑛は反射的につかんでぱくっと食べてしまいー勺ハッとした。しまった。昔の癖《くせ》がでた。藍州州牧だったころ、孫陵王は楸瑛と迅に、よくこうしてニヤニヤ飴玉を放り投げてきたものだった。池の鯉《こい》みたいでおもしれーと笑いながら。  あの頃と同じ笑顔《えがお》で、けれど目だけは|譲《ゆず》らない鋭《するど》い光を灯《とも》し、孫尚書は楸瑛を見ている。その日には覚えがあった。かつて藍州州牧だった彼が、三人の兄と対峙《たいど》していたときと同じ。 「一人の藍姓《せい》官吏も連れて帰らず、勘当されて出戻ってきたお前なんぞ、必要ない」  楸瑛はぎゅっと|眉《まゆ》を寄せた。 「いーかボーズ。うぬぼれるなよ。なんであのときお前を将軍に据《す》えたかって、そりゃただ単にお前が|唯一《ゆいいつ》の藍家直系だったからにすぎん。お前を将軍に据えときや、上層部も安心する。王位争いからこっち、官吏どもは紅藍両家の動きを神経質に気にしてたからな。ゴキゲソ損《嘉ヽこ》ねたらビーしよう、また見捨てられたらピーしようってな。アホらしい」孫尚書は|抽斗《ひきだし》を開けると、刻《きぎ》み煙草《たぼこ》の箱を取り出した。慣れた仕草で空の煙管に煙草をつまみいれる。火をつけると、独特の香《かお》りとともに、ふんわりと紫煙《しえん》がくゆる。 「だから、藍家の名前が使えなくなったただの撒瑛ちゃんは必要なし。用無し。そんなに戻りたきや、王様に『また将軍になりたーい』って泣きつけ。きっと叶《かな》えてくれるぞ。勅命《ちよくめい》なら俺も逆らえん。またまた王様のバカっぷりが露呈《ろてい》するがな」もうひとつぶほじかれた飴玉を、楸瑛はやけっぱちのように口中に放りこんだ。  ここまでコケにされても無言のままの楸瑛を見て、孫尚書の笑顔が少し変化した。 「ふーん。ここらへんでしょんぼりするか俺がバカでしたってスゴスゴ引き下がるかと思ったんだがなぁ。なに、帰ってきた楸瑛ちゃんはちょっとは大人になったのかな」                                                                                                                                                              一」.■飴玉が二個入った口をリスのようにモゴモゴ動かしつつ、楸瑛ほじとっと孫尚書を睨《・′h▼.−》んだ。 「−別に。もらえるものはもらっとこうと思ってるだけですよ。飴も情報も。孫尚書のいうとおり、無職で文なし宿なしで、もってるのは顔と頭と若さだけですから」 「ぷぷぶ。かわいそー。ろくなもんもってないねぇ。オジサン涙が《なみだ》ちょちょざれちゃうよ」こんなことなら真っ正直に将軍職返上しないで、あとでどうとでもなるよう弟の龍蓮が危篤《■l−レJく》で一時里帰りしますとかにすればよかったと、楸瑛は今さらながらぷちぷち|後悔《こうかい》した。  それを読んだ孫尚書は吹《ふ》き出した。 「まったく、お前は本当に頭いいくせに全然使わないねぇ。ほんっと小賢《こぎか》しい小細工ってもんができない性格っつtか。まあそれがお前の|微笑《ほほえ》ましい欠点でもあるがな」 「……全然弁護になってません」 「まあしばらく家に引っ込んで謹慎《きんしん》してろ。そんなに仕事したいなら、ほとぼりが冷めたころにどこぞの州の武官に任命してやる」                                                                                                                                                                                                ヽ�楸瑛は最終兵器を取り出した。おもむろに後ろ手に隠《カく》していた小箱をスッ牝規せる。すいぜ人 「孫尚書、実はここに藍州原産最高級煙草があります。年二十箱限定生産、喫煙愛好家垂艇の的、幻《まぼろし》の煙草、通称《つうしょう》�藍の夢″」  孫尚書の動きが止まった。 「……マジか?」 「マジです」 「……見せてみろ」 「職と引き替《か》えでお願いします」  孫尚書は唇の端《くちげるはし》を持ち上げた。 「必死だな。相当みっともないぞ、楸瑛」 「必死ですよ。だからみっともなくても別に気にしません」  楸瑛は劉輝を思い|浮《う》かべた。 「孫尚書、私は羽林《・ワ‖りん》軍にも将軍職にも戻して欲しいなんて一度もいってません。いちばん下っ紺《ヂす》で構わないんです。どんな職でも結構です。−この城にいられるなら」頭を下げた楸瑛を、孫尚書はしばし|黙《だま》って見つめた。その顔からは、今までの子供を相手にするような軽々しさは|一切《いっさい》消え失《う》せていた。楸瑛自身を検分するような深い眼差《まなぎ》しだった。  ややあって、孫尚書は煙管を返し、燃え尽《つ》きた灰を灰入れに捨てた。 「藍家直系で、国試樺眼及第の俊英、《ぼうげんきゅうだいしゅんえい》将軍職まで務めた男が、どんな職でもいいか。落ちたモソだな。家も仕事も捨てて、果ては誇《はこ》りまでどこぞのどぶに捨ててきやがったか?」楸瑛の心はいささかも揺らがなかった。それは自分でも不思議に思うほどに。   −何がいちばん大事なのか、楸瑛はもう知っている。 「捨てたのではありません。選んだだけです。そのために必要なものがあるのなら、何も厭《いと》うつもりはないだけです。私の誇りは、別なところにあります」  長い長い沈黙《ちんもく》が落ちた。  頭を下げたままの楸瑛には、孫尚書がどんな顔をしているのかわからなかった。   ややあって、筆を執《と》る音がした。さらさらと、筆のすべる音が微《かす》かに響《ひげ》く。 「藍家の男を本気にした王に免《めん》じて、これをくれてやる」  将軍職を拝命したときと同じように、辞令の書が飛んでくる気配がした。楸瑛は受け取り、中を開いた。書かれているものを|一瞥《いちべつ》し、盛大に顔を引きつらせた。 「た、確かに……どんな職でもいいとは言いましたけど……ひどくないですかコレ!?」 「くっくっく。ほらさっさと寄こせ煙草」 「えっ、本当にもらうつもりですか。こういうの、収賄《しゅうわい》っていうんですよ」 「アホかお前は。今さら何いってやがる。いーか、御史台にばらしたらお前も|一緒《いっしょ》に『今日から無職』に逆戻《ぎやくもど》りだからな。ほら渡《わた》せ。何しぶってんだ。どうせお前はのまないだろうが」 「えーと…………じゃあ、はい。どうぞ」  楸瑛はものすごく|葛藤《かっとう》した後、しぶしぶ箱を渡した。  孫尚書は箱を手にした|瞬間《しゅんかん》 「?」という顔をした。箱を開け、しばらく沈黙が降りる。 「……オイ楸瑛、なんだこれは」 「見ればわかるじゃないですか。飴です。桃《・も・も》味の」 「……ン墜蹄軌凰草はどこだ」 「本当にワイロになったらお互《たが》いマズイだろうと、中身を飴にLといたんです。思いやりです」 「返せさっきの辞令」 「やです。じゃあ私はこれで」楸瑛はすかさず|踵《きびす》を返した。 「ちょっと待て。楸瑛、この城にいられるだけでいいってなら、別に俺に頼《たの》まんでもいくらでもツテはあっただろう。なんでわざわざ真っ正直に俺のところに戻《も�J》ってきた?」               ,わ楸瑛は振《_》り返り、まっすぐに孫尚書を見た。 「別に何も意図はありません。真っ正直に、あなたに会おうと思ってきたんです」  孫尚書はまじまじと楸瑛を見つめた。次いで、何か懐《なつ》かしいものを見たように笑った。 「バカだな、楸瑛」 「|近頃《ちかごろ》自分でもたまにそう思います。−最後に孫尚書、司馬迅という男を覚えてますか?」 「ああ、お前といつも一緒にいたガキだな。俺が|処刑《しょけい》の判子を押したやつだ」 「なんか生きてるっぽいんですが」 「気のせい気のせい」孫尚書はニヤニヤ笑った。どこまでものれんに腕《うで》押しなノラクラ尚書である。  楸瑛は孫陵王にいいように遊ばれるだけだったが、迅は進んで陵王とよく話をしていた。 『あの人はすごい人なんだぜ、楸瑛。まさか会えるとは思ってなかったから、感激した。ま、  お前は不良でへソなオッサソ州牧と思ってりやいいさ。事実だし』  ……迅が処刑されたとき、藍州州牧で、処刑の判を押したのはこの孫尚書だった。  だが迅は生きていた。何があったのかはわからないが、あの|状況《じょうきょう》で迅を逃《に》がし、処刑したように書類を|偽造《ぎ ぞう》できた者は限られる。藍州州牧だった孫尚書は|間違《ま ちが》いなくその一人だ。  何より迅は兵部侍郎殺害の下手人《げしゅにん》だ。そのせいで『官吏殺し』の一件は真部侍郎止まり《ヽヽヽヽヽヽヽ》で終わり、それより上《ヽヽヽヽヽ》に伸《の》びなかった。兵部侍郎を殺して、迅が『誰《だれ》』を『守った』のかー。  迅の忠誠を手にした『主君』は誰か。それが相対すべき相手でもあるはずだった。  楸瑛ほ深々と一礼して踵を返した。孫尚書がもう一度だけ呼び止めた。 「楸瑛、お前は今の藍家じゃいちばんまともだ。それは認めよう。甘ちゃんでアホなことぽっかりしてるが、俺は好きだ。カラに引きこもって他人に手を差し伸べることのない紅藍両家の中で、よく全部の鎖《くさり》を引きちぎって王を選んだ。……最後まで選んだ王の傍《そば》にいてやれ」楸瑛の足が止まった。 「……最後までって、なんですか」  楸瑛は振り返った。初めて、その顔から一切合切の甘さがそぎ落とされた。 「王はあの人です。他《ほか》に誰もいない。今までも、これからも」  言い捨て、楸瑛は室《へや》を出て行った。  ……一人になった室で、孫尚書は紫煙《しえん》の消えた煙管《させる》をくるくると回した。 『別に何も意図はありません。真っ正直に、あなたに会おうと思ってきたんです』  小細工なしで、孫陵王と相対Lにきたのだと|馬鹿《ばか》正直に言った。  あなたが何を考えていようが、私は王の味方です、と宣言しにきただけだと。  孫陵王は思い出し笑いをしてしまった。まったく大馬鹿だ。ガキの頃《ころ》からそうだったが、頭良さそうな顔して、実は藍楸瑛は小細工嫌《ぎら》いの真っ向勝負を好む。司馬迅のほうが慎重《しんちょう》で注意深い軍師向きだったりする。それにしても、若いってのはいい。馬鹿は好きだ。  自分の誇りは別なところにある、と言い切った。思いだし、笑《え》みがこぼれた。 「ふ……あいつもいっぱしの男の顔になったもんだ。よかったなぁ、旺李。あの若い王にも、ようやく一緒に死んでくれそうなヤツができたぜ。これで何があっても、|寂《さび》しくないな」  孫尚書は若い王が嫌《きら》いじやない。別に政事をほしいままにしようとしているわけではないことも知っている。うまく育てば、いい王になるかもしれないとも思う。  でも、もう遅《おそ》いのだ。  駒《−Jま》はそろい、時はきた。  藍楸瑛が紫劉輝に夢を見るように、孫陵王は旺李に王の夢を見る。  弱い者が切り捨てられることのない|優《やさ》しい世の夢を、見るのだ。       ・翁・翁・  秀麗は朝廷へ到着《ちょうていとうちゃく》すると、まっすぐ御史大夫室へ向かった。 「紅秀麗です。入ります」  秀麗が御史大夫室に入ると、待ち受けていたのは葵皇毅だけでほなかった。  秀麗はぐっと眉根《まゆね》を寄せた。 「……清雅」 「やっぱりきたか。まったくわかりやすい女だな」  倣岸《ごうがん》に薄《うす》い唇をゆるめてみせるその鮮《あぎ》やかな微笑《げしょう》が、相変わらず清雅にはいちばん似合う。  清雅はすでに、秀麗がなんの目的で御史大夫室にやってきたのか知っているのだろう。だがそれは秀麗も同じだった。清雅が何をするのか、秀麗もわかっている。だからきたのだ。  机案《つくえ》の向こうで、葵皇毅が秀脛を見《み十†》替えた。 「何の用だ。まったくお前はいくら追っ払《ぱら》っても追っ払っても懲《こ》りもせず、カナプソのように朝から晩までブソブソたかるからな。とっとと用件を言って出てけ」 「カナブソてなんです! こんな可愛《かわい》い女の子にうろちょろされて嬉《うれ》しくないんですか」 「馬鹿めが。蜃樹のテキトーな世辞をうかうか真にうけおって。歩く掛《か》け流し温泉のごとくいつでもどこでも垂れ流しなあいつの世辞なんぞ、毛根ほどの価値もないわ。お前なんぞカナブソでも上等だ。コガネムシ科らしく金でも情報でも手柄《てがら》でもせっせと運んで飼い主に尽くせ。カナブソ御史は今のところ雑用と漬物《つけもの》以外の役にはトンとたっとらんように見えるが〜」  秀庫はぶるぶる震《ふる》えた。確かにその通りだが、相変わらず無表情でひどいことをいう上司だ。  蜃樹が世辞の掛け流し温泉なら、皇毅は嫌味《いやみ》を掛け流している。 「くだらん話はここまでだ。用がないなら叩《たた》き出す」  秀欝ほ背筋を伸ばした。隣《となり》で清雅も同じように皇毅に向き直るのが視界の隅《すみ》に見えた。  こうして改めて真正面から皇毅に対すると、足から震えが遣《 ・ゅ》いのぼってくるような気がした。  水の眼差《まなぎ》しに射疎《いすく》められるような威圧《いあつ》と緊張。嘘《きんちょううそ》も虚勢《きよせい》も皇毅の前では否偲《いやおう》なく鮒《よ》ぎ取られる。                                                                                                                                                                                                                                                                            ’Lt一ー  秀贋は息を吸った。何を言われても決して逃げ出さないように、両足を踏《_》みしめた。 「�吏部侍郎、李経倣殿が御史台に拘束《−J,ワそく》されたと聞きました」 「それがどうした」 「担当御史はここにいる陸御史ですね」 「だから?」 「あわせて私も担当させてください」  皇毅は鼻で|喋《しゃべ》った。 「恩のある李絳攸に、手心を加えて助けてやりたいわけか」 「……そう思われても仕方ありません」 「くだらん言い訳をしないだけの頭はあるようだな。お前のクビと引き替えに、李絳攸を助けたいとでもいうつもりか? 榛蘇芳《しんすおう》の猿真似《さるまね》でもするつもりか」清雅がチラリと秀麗を横目に見た。この答えには興味がある。  秀麗の答えは迷いなく、簡潔だった。 「1違《ちが》います。そんなに簡単に捨てられるようなものではありません」  皇毅の目が細められた。……以前なら、間違いなくこの娘《むすめ》は 「是《ぜ》」といっていただろう。 「そうだな。そんなものはまったく無意味だ」                                                                                                                                                             l  榛蘇芳の行動には意味があった。秀麗を活《l■》かすために自分を切った。  九彩江に入ったらクビだとはいったが、それを真に受けて秀席が王を追わずにただボケッと待っていたら、それこそ皇毅は問答無用でクビにするつもりだった。  臨機応変に自分の頭で考えて対処できない無能は必要ない。九彩江がどんな場所か知った上で、保身を考える官吏に用はない。最後は上司にも誰にも拠《ょ》らず、自らの判断で行動と結果に責任をもつ。それができない官吏はいざというとき使えない。  秀麗はクビだと知っても、王を無事に連れ帰るほうを優先した。それが 「仕事」だからだ。  |帰還《き かん》後も、言い訳しなかった。そんな秀席を朝廷に残すために、今度は榛蘇芳が動いた。  秀麗が自分より王を活かしたように、蘇芳は自分と引き替えとなるモノー紅秀雄を朝廷に残すほうが大事だと判断した。それぞれ感情でなく、理性で選んだ行動だ。だから価値も意味もある。上司の『最後の一線』を直感で見極《みきわ》めるのに長《た》けた榛蘇芳らしい行動だった。  けれど今の秀席が、皇毅に絳攸を釈放《しゃくはう》してくださいとただ頼《たの》むのも無意味なら、そのかわりに自分の首を差し出すこともまったく無意味だ。単なる感情論だ。  それは御史としての仕事ではない。   −が、この娘は言わなかった。  この娘は確かに、皇毅が時々気まぐれに仕掛《しか》ける罠《わな》をくぐり抜《ぬ》けていく。清雅と違《ちが》ってかな  り危なっかしいが、一度も引っかからないのは確かだ。運にせよ、単なるカソにせよ、他人に助けられるにせよ、それもまた紅秀麗のもつ力であるのは確かだ。  チラリと清雅を見れば、|妙《みょう》に嬉しげだった。李絳攸は端《はな》から歯牙《しが》にもかけなかった清雅が、紅秀麗には最初から好戦的だった。見る目は正しかったと言うべきだろう。  紅秀欝と李緯俄のどちらを配下にとるかと言われれば、今の皇毅は迷わずこの娘を選ぶ。 「李絳攸の訊問《じんもん》を身内のお前が担当すれば必ず甘くなる」 「ですが、陸御史一人では、不必要に厳しくなることも考えられます。『官吏殺し』とかいうへソな異名をとる陸御史では、先に更迭《こうてつ》ありきの捜査《そうき》になる可能性があります。彼一人では偏《かたよ》って不公平です。どうせ偏るなら、私にも担当を。秤が釣《はかりつ》り合ってちょうどいいじゃないですか。陸御史が李経倣殿更迭のために捜査するなら、私は留任のために捜査します。−|双方《そうほう》鑑《かんが》みて、処分は長官のご判断にお任せします」皇毅は秀麗を検分するように目をすがめた。  ……いま、この娘はひどく|面白《おもしろ》いことを言った。 (裁判に関して検察と弁護の二手にわかれる……か)  歴代、謹告《ぷこく》が数知れず、濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》で死んでいった艮更《りょうり》は山ほどいる。  拘束された者を|庇《かば》うと、もろともに|失脚《しっきゃく》する恐《おそ》れがあるため、誰《だれ》もが口を閉《と》ざす傾向《けいこう》にあるからだ。有罪無罪は御史の人格や能力に左右されがちで、 「有罪」を積み重ねることで能力を示し、出世の足がかりになることも大きい。どうするべきかと皇毅も常々考えていたが。                                                                                                                                                    ヽ (朝廷の保護を受けて堂々と弁護のための捜査ができる制度があればいい……か)  |普通《ふ つう》、上司に堂々と、御《う》史台《ち》が捕《つか》まえた人を助けたいんで私に洗い直させてくださいとかいう素《す》っ頓狂な馬鹿《とんきようぼか》者はいない。だがここで皇毅が許可すれば、正当な 「仕事」となる。  ふむ、と皇毅は瞑目《めいもく》した。……詰《つ》めてみる価値がありそうだった。 「……争点は、李絳攸に吏部侍郎の適性があるか否《いな》か、だ。お前は、李絳攸が朝廷に必要だと思うのか?」 「もちろんです。何よりも王に、李緯倣様は必要な方だと思います」 「�馬鹿めが」皇毅は|一瞥《いちべつ》のもとに切って捨てた。 「李絳攸が王に必要だと? とんだたわごとをほざく馬鹿がいたものだ」  秀腰が反駁《は人ぼく》する前に、皇毅が喋って言を継《−つ》いだ。 「……面白い。いいだろう、李絳攸の何を以《もつ》て朝廷に必要だというのか、あの男が王に必要だというその理由を、|証拠《しょうこ》を並べ立てて私に知らしめてみるがいい」 「え�」 「許可する。李経倣更迭の件に開し、お前も清雅と共に捜査に当たるといい。今回の主導権は刑部《けいぶ》でなく御史台がとる。長々とひっぱるつもりはない。ひと月後、御史大獄《たいごく》を開く。それまでに必要な情報は共有し、御史大獄にて清雅が検察、お前が弁護を担当しろ」 「御史大獄−一秀麗が|呟《つぶや》いた。普通は刑部が裁判の主導権を|握《にぎ》るが、御史大獄は御史台が主導権を握る裁判。 「−ただし」  トン、と皇毅は指先で机案を打った。 「御史大獄では、私の判決が最上位にくる。つまり、最終的に私の決定が李絳攸の処分になる。�先に私の処分を言っておく。李絳攸は必ず更迭する。お前がいくら駆《か》けずり回って、どんな証拠を並べ立てようが、絶対にな。私の意思を覆《くつがえ》すのは不可能だと思え」秀贋はぎゅっと唇を噛《か》んだ。  最初は、藍将軍。次が緯倣様。  一つ一つ、碁石《ごいし》がひっくり返っていくように。劉輝の周りから人が消えていく。  皇毅が指で机案を叩いた。秀麗が顔を上げると、薄い色の双陣《そうぼう》が秀麗を見ていた。 「紅秀麗、お前は政治家と官僚《かんりょう》の違いが何かわかるか?」 「……え?」  |唐突《とうとつ》な問いに、秀麗は面食《めんく》らった。政治家と官僚の違い? 「御史大獄までに考えておくんだな。予言してやろう。その答えがわかれば、お《ヽ》前《ヽ》は《ヽ》必《ヽ》ず《ヽ》李《ヽ》繚《ヽ》牧《ヽ》の《ヽ》弁《ヽ》護《ヽ》か《ヽ》ら《ヽ》手《ヽ》を《ヽ》引《ヽ》く《ヽ》。だがひと月捜査をしてもわからず、御史大獄の日まで李絳攸の留任をほざいているようなら、そんな無能は御史台に必要ない。李緯倣と共に仲良くクビだ」捜査をすれば、秀寮が自ら絳攸の弁護をおりる?おりなかったら、無能で|一緒《いっしょ》にクビ。 「……それじゃ結局、どっちにせよ緯倣様はクビじゃないですか」 「最初からそういっている。私が李絳攸を更迭すると言っている以上、お前のすることは単なる骨折り損で、時間のムダ以外のなにものでもない。清雅が負ける案件に手を出すと思うか。どうする。今ならおりても構わんぞ。おとなしく別の雑用でもやっていろ」  清雅を見れば、皇毅の言葉の意味を理解しているように自信たっぷりに笑っている。  けれど秀麗には、どうして皇毅がそんなことをいうのか、まるでわからなかった。  曲がりなりにも皇毅の下で半年過ごした。皇毅の風当たりがいちばんきついのは|間違《ま ちが》いなく秀麗だ。滅多に見かけることのない御史の中で、多分秀麗は清雅と並んでいちばん薬皇毅と接している。口癖《くちぐせ》のようなクビにしてやるという言葉が混じりけなしに本音なのも知っている。  清雅のように必要とされてもいない。そこにあるから使っている程度の存在だ。  剃那、刺《さ》すように胸が痛んだ。皇毅に全然必要とされていないことを、まさか情けなくて悔《くや》しいと感じていたとは思わなかった。相手はいろいろ悪いことをしてそうな皇毅なのに。  でも、いつだって皇毅は秀《ヽ》麗《ヽ》を《ヽ》や《ヽ》め《ヽ》さ《ヽ》せ《ヽ》る《ヽ》た《ヽ》め《ヽ》の《ヽ》言《ヽ》い《ヽ》が《ヽ》か《ヽ》り《ヽ》をつけたりほしなかった。理不《り・ー、》尽《じん》で無茶《むちや》苦茶な命令は山ほどあっても、クビだという言葉の裏には、いつだって皇毅なりの理由があった。秀麗の甘さ、理想と現実、正義と必要悪、硬貨《こうか》の裏表のような世の中で、自分が正しいと思っていることが正解ではないこと−。それらが、皇毅には 「使えない」要因だったから、クビだと言ってきた。逆にいえば、必ずどこかに出口があった。  けれど、今回は違う。いくら秀麗が頑張《がんぼ》ってもムダだ、頭から絳攸は更迭するという。  李絳攸は朝廷随一《ちょうていずいいち》の才人といわれた人だ。吏部の侍郎として夜遅《おそ》くまで山のような仕事をこ  なし、配下である拍明《はくめい》も、緯倣様のおかげで吏部が回っているといっていた。仕事をきちんとこなし、生|真面目《まじめ》で|潔癖《けっぺき》で、不正をするはずもない。  絳攸に落ち度があったとは思えない。彼が必要でないなんて思えない。秀麗には単に、劉輝のそばから次々に信頼《しんらい》できる側近を引き離《はな》していくための言いがかりにしか聞こえない。 「王は、他《ほか》ならぬ緯倣様に�花″を渡《わた》しました。なのに更迭なんてー」  けれど、皇毅は冷笑《れいしょう》とともに、ただひと言で切って捨てた。 「王が無能なだけだろう」  皇毅は、秀麗の顔つきがみるみる険しくなるのを、面白そうに見つめていた。  朝廷《ちょうてい》は国試派と貴族派にわかれているが、そこに王の存在はない。官位争いはしているが、国試派は別に王の味方というわけではない。先王と違い、今の王に擁護《ようご》してもらったという恩もなく、致命的《ちめいてき》だったのは、側近二人に紅藍両家と緑《えん》の深い二人を選んだことだ。あれで実力主義の国試派官吏たちは落胆《らくたん》した。結局大貴族の彩《きい》七家かと思い、|距離《きょり 》を置いた。ゆえに、国試派の多くも、玉座にいる王が、紫劉輝でな《ヽ》け《ヽ》れ《ヽ》ば《ヽ》な《ヽ》ら《ヽ》な《ヽ》い《ヽ》という意識はさしてない。 (……まあ、あの二人をあえて最初に傍《そぼ》に置いたのは、霄太師だがな)  たまに皇毅は、あの名臣と|誉《ほま》れ高い老人が何を考えているのか不思議になることがある。  十年前の公子争いの時もそうだったが、時折、まるでこの国の破滅《はめつ》を望むかのような一手を盤上の隅《ぼんじようすみ》に打つ。その駒《こま》の行方《ゆくえ》がどうなるか、まるで試《ため》すかのように|黙《だま》って見ている。  それでいえば、この娘《むすめ》もまた、霄太師の打った一手だ。  妃と《ききき》しての一手かと思ったが、官吏の駒に化けた。  今やほんのわずかな、王の官吏として。  この駒がどこまでやれるのか、皇毅の邪魔にならないうちは見ているのも一興だった。 「どうする? やるのか、やらんのか。早く決めろ」 「�やります」  秀麗は|両腕《りょううで》を組み、厳しい表情で皇毅と相対した。もう足は震《ふる》えていなかった。  絳攸を罵倒《ぼとう》されることは、彼を重用した劉輝も無能呼ばわりされることなのだ。  そしてまた、秀麗が馬鹿にされることは、彼女を推《お》した劉輝と絳攸が馬鹿にされること。 「こんな状況《けしよ・ツさよ・ブ》になって、ノンキに雑用なんかしてられません。経倣様は私の師です。なぜ葵長官が頑固《がんこ》に経倣様を更迭《こうてつ》したがるのか、今の私にはさっぱりわかりません。受け入れられない以上、私は自分の意志に従い、李経倣様を守るために動きます。特に底意地の悪い清雅一人なんかにや到底《とうてい》任せられません。−李侍即の弁護、私が担当させていただきます」 「−よかろう。やってみるがいい。身内の手で処分されるくらいの情けはかけてやる。今回、上からの命がきている。お前が受けた場合、浪《ろ一つ》燕青をお前につけろとのことだ」 「は!?上からって……」 「王も必死だな。まあいい。浪燕青の御史台への正式な大台を許可する。榛蘇芳にかわり、お前付きの御史裏行《ぎよしみならい》にしてやる」 「ちょっと待ってください! 燕青はだめです。藍州の時は他に人手がなかったので昔のよしみでむりやり頼《一/ノパ}》んでしまいましたけれど、彼はそのために貴陽にきたわけじゃ一1!」 「ほぉ? 意外だな。てっきり喜ぶと思ったがな。が、この際お前の意思は問題ではない。私が欲しいと思っていた男だからな」秀麗の前で、皇毅は−それはごくごく一瞬だ《いつしゅん》ったが、確かにー初めて、嫌味《いやみ》でない満足そうな微笑《げしょう》を閃《ひらめ》かせたのだ。 「浪燕青は使える男だ。よくヤツを御史台に引っ張ってきたな。褒《ヽ》め《ヽ》て《ヽ》や《ヽ》る《ヽ》」  秀麗は耳を疑った。……いま、なんといった? 「あれほどの男をフラフラさせておく手はない。お前が綱《つな》つけて握っておけ。逃《に》がすなよ」  皇毅は秀脛を一瞥もしていない。皇毅の視線はずっと机案《つくえ》上の書翰《しよか人》にそそがれたまま、ちやくちゃくと決裁なんかしている。そんな光景などいつものことで、皇毅は誰《だーl》かを『褒める』のも片手間ですますのが|普通《ふ つう》なのかもしれない。第一いい加減だろうが何だろうが、あの皇毅が初めて褒めたという事実のほうがよっぽど重要だし、燕青が有能なのは秀麗にもよくわかっているし、とにもかくにも、む《ヽ》か《ヽ》っ《ヽ》腹《ヽ》が《ヽ》立《ヽ》つ《ヽ》なんておかしいはずだ。  いや、それも少し違《ちが》う。この下腹部に何かがたまるような感情はもっと−。                                                                              l l 「これでお前を拾った甲斐《カーV》が多少はあったというものだ。お前をクビにしても浪燕青はちゃんと残して使ってやる。安心して職務に励《◆ゅ†,》め」そんな酷《ひど》い言いぐさも、今まで散々聞いてきて、別に|珍《めずら》しくも何ともないはずだった。  いつもと変わらないはずなのに、秀麗の胸にはいつもと違う感情が萌《きぎ》していた。  清雅はふと、秀麗に目をやった。その横顔を見て、口笛を吹《ふ》きそうになった。 (……甘ちゃんのこいつしか知らないヤツらが見たら、どう思うやら)  清雅は笑った。畳樹が好きそうな表情《かお》をしている。清雅もこの顔の秀麗は好みだ。  清雅の見ている前で、秀麗はずかずかと大机案に詰《つ》め寄った。 「−長官!! ちょっとこっち向いてください!」 「なんだ、やかましい。いちいち叫《さけ》はんでも聞こえる」  皇毅はう渇きそうに顔を上げた。|不機嫌《ふきげん》な双脾《そうぼう》に、秀麗《じぷん》の顔がうつりこんでいる。  悔しさと怒《●ヽムり》りがないまぜになったような顔だった。感情はまったく正直だ。そう−。 (褒められたのは私じゃない)  この理不尽な長官に認められているのは秀麗ではなく、燕青だ。  秀麗は燕青を釣《つ》り上げる撒《ま》き餌《え》ばっちにしか思われてないのに、喜べるはずがない。  皇毅は|訝《いぶか》しげに|眉《まゆ》を攣《ひそ》めた。……いつにも増して挙動不審《ふしん》な娘だ。 「……上司にガンをくれるとほ、いい度胸だな。いいたいことがあるならさっさといえ」  秀麗は口をひらきかけ、むなしく閉《と》じた。きゅっと唇《くちげる》を噛みしめる。 「あ、ありません。長官の年季の入った男前なお顔を拝見したかっただけです!」 「そうか。満足したならとっとと出て行け。私はどこぞのちんくしゃ娘の顔は見飽《みあ》きた」 「ぐっ。……はい」  秀鰐はスゴスゴ|踵《きびす》を返して出て行ったのだった。  皇毅はいつも以上におかしな娘に首をひねりつつ、清雅を見た。 「清雅、わかっているな」 「わかってますよ。俺は俺の仕事をちゃんとこなします。いつもどおりに」  清雅はニッと笑ってみせた。 「−なら、いい」  皇毅は短く領《うなず》き、顎《あご》をしゃくった。 「悪い男だね、皇毅」  曇樹の声に皇毅はぎょっとした。見れば、蜃樹が窓から乗りこんでくるところだった。 「さっき、お姫様《ひめきま》に『ちゃんと私を見て!』っていわれたんだよ。ダメだねー君は。無言の愛の告白に気づかないで。全然なってないよ。ずるいなー。お姫様にそんなに愛されちやって」皇毅はこめかみに青筋を浮《.つl》かべた。……まったくこの男ときたらどこでも構わずわいてくる。  姜樹は愛婿《あいきょう》のある茶色の目で秀麗が出て行った|扉《とびら》を見た。 「ふーん、皇毅くらいの男でお姫様はやっとその気になるのか。今までほ別に男を弄《もてあそ》んでたんじゃなくて、単に理想がバカ高いだけだったのかなー。残念」 「……蜃樹。クラゲのようにあちこち気ままに|浮遊《ふ ゆう》するな。仕事はどうした」 「なんで残念かって? ぼくの好みは可愛《かわい》い悪女だから。女王様とはちょっと違うんだよ。天性の素質があるよね。たらしこんで貢《みつ》がせて仕事の踏《ふ》み台にした男の数々。すごいぼく好み。  早く成長してぼくを弄んでほしいなうて思ってたのに、単に渋好《しぶごの》みだったらどうしよう」 「人の話をきけ。俺はそのダダ漏《も》れ明るい変態宣言のほうがどうしようだ」しかし曇樹はまたもやあっさり無視し、面白そうに皇毅をのぞきこんだ。 「皇毅。お姫様は君に酷い仕打ちぽっかりされているのに、慕《した》ってくれるんだね。君が旺季様を選んだように、お姫様は君を選んだんだ。嬉《うれ》しい?」皇毅は馬鹿馬鹿《ぼかぼか》しそうに鼻をならした。蜃樹の目に触《=》れるまえに書翰を残らずしまいこむ。 「もっと使えるヤツだったらそう思っただろうな」 「でもね、皇毅。ぼくはね�全然不思議じゃないんだよ。お姫様が君を選んだこと」 「……遥《はる》か昔から百万遍《けやくよんペん》ほど言ってる気がするが、人の話を聞け」 「違うだろう、皇毅。君《ヽ》が《ヽ》ぼ《ヽ》く《ヽ》の《ヽ》話《ヽ》を《ヽ》聞《ヽ》き《ヽ》た《ヽ》が《ヽ》ら《ヽ》な《ヽ》い《ヽ》んだ」  皇毅が鋭い視線を曇樹に投げた。急に室《へや》の温度が下がった気がした。  螢樹は笑っていたが、その茶色の睦《けlとみ》から、不意にいつも浮かんでいる茶目《ちやめ》っ計《f》がすべて消え失《う》せた。それは一瞬の半分にも満たないほどの剰那《せつな》で、深い奈落《ならく》の底のようだった。すぐに浮かべた微笑は、いつもより謎《なぞ》めいて底知れなかった。 「……そう、彼女は君を選んだんだ。黎深や奇人《きじん》や李締倣でも、悠舜でもなく。そっか」  そっか、と何度も繰《く》り返す。皇毅の眉間《みけん》に、苛立《いらだ》ちが漂《ただよ》った。 「……妾樹、前々から不思議だったが、お前ほなぜあの娘《むすめ》にちょっかいをかける? お前になんの益も利用価値もないだろう。出世の役にも立たんぞ」 「なになに、牽制《けんせい》? ふっふっふ。ぼくっていう強力な恋仇《こいがたき》の存在を知って恋に目覚めちゃったかな? でもぼくは相手が君でも身を退《ひ》いたりしないからね」 「腐《くさ》った寝言《ねごと》は深海の底で漂いながら呟け《つぶや》、この浮遊クラゲ」 「まあ背後霊憑《はいごれいつ》きのトドよりはマシだけどね……。あのね、君のほうが不思議な行動とってるよ。君がクビ寸前だった冗官《じょうかん》のお姫様をわざわざ拾ってあげた理由とか、そのくせ彼女をクビにしたがる矛盾《むじゅん》とか。ま、だいたいわかってるけど」ニヤニヤと蜃樹は猫《ねこ》のように眼を細めて笑う。 「皇毅、君は毎度毎度お姫様にひどいことして冷たく当たって、ぼくはそんなお姫様を励まして|優《やさ》しくした。でも、彼女が選んだのは君だった。他《ほか》の誰でもない、君に認められたがってる」 「馬鹿馬鹿しい」 「馬鹿馬鹿しくないよ。初めてじゃない? お姫様が上司の評価にふくれっ面《つら》したの。今まで、自分の評価なんかそっちのけで他人事に|奔走《ほんそう》してたお姫様がさ。初めてちゃんと自分を見て、認めて欲しいって思ったんだよ。他の誰でもない、君にね。もっと嬉しそうにしならどう〜」皇毅はもはや何を言うのもあきらめた。しっしっと犬を追うように邪険《じやけん》に手を振《バ》る。 「お前のくだらん戯言《たわごと》には開いた口がふさがらんわ。用がないなら帰れ」 「えー。ぼくは君が羨《うらや》ましいよ。ちゃんと本当の自分を見て、好きになってくれるコなんて、いくらもいない。しかもぼくたち『実はイイヒト』なんてオチもないしさ」 「ばかいえ。俺はお前よりはいいひとだ」 「別に否定しないけど、それ、清雅はいいひとだ.っていうのと同じだよ」 「気分の問題だ。|一般《いっぱん》的にはどうでも、お前と十把一絡《じ.つばひとか・り》げにくくられてたまるか」 「ふふん。二十歳も年下のお姫様をたらしこんで、一般的には君はどう見てもワルイ男だよ」  蜃樹は謎めいた笑みをくすりと唇に刻んだ。 「……でも君がいらないのなら、じゃあぼくがもらってもいい?」  蜃樹はどこか|挑戦《ちょうせん》的に、どこか試《ため》すように、ゆっくりと繰り返した。 「君がクビにしたら、今度はぼくが拾ってもいいよね。いらないんだからいいよね?」       ・巻・器・  秀麗は邵可邸に飛んで帰ると、猛然《もうぜん》と燕青をさがしまわった。 「燕青!!ちょっと燕背、いる!?」 「おう。おかえり〜。どした姫さん」  何度目かで、燕青がひょっこりと顔を出した。庖厨《だいごころ》から炊事《すいじ》の煙が《けむり》漏れている。 「……なにしてるの?」 「静蘭と|一緒《いっしょ》に晩飯つくってる」 「晩飯!?」 「ほら、ショ一コショーコ。姫さん用にたった今つくったおにぎり」  差し出された 「おにぎり」を見て、秀麗はしばらく沈黙《ちんも! ヽ》した。なんだろうこれは!。 「………………よ、妖怪《ようかい》の頭……?」 「おにぎりだって」  赤ん坊《ぼう》の頭くらいある。べタべタ海苔《のり》が張ってあるのはまだしも、あちこちからちょろちょろ飛び出ている黒い紐《ひも》は引っ張ってよくよく見ると昆布《こんぷ》だったが、ともすれば髪《かみ》の毛みたいに見えて不気味である。他にもなんだかいろいろ埋《.つ》め込まれているもようだ。 「腹減ったなら、これでも食べて待ってろって」 「じゃなくて! 燕青に話があるの」 「今すぐ?」 「今すぐ!」  燕青は庖厨に顔を引っ込めた。 「てことなんだけど、静蘭、あと任していいか〜?」  答えのかわりにお玉が飛んできたが、燕青はやすやすとつかむと、 「いいらしい」といった。  秀麗は妖怪の頭のようなおにぎりをえっちらおっちらもって、宴《へや》を移った。やたら重い。 「お、重いわね……」 「んじゃ食お−ぜ」 「なに、食おーぜって。私につくってくれたんじゃないの」 「いや俺もつくってるうちに腹減ったから半分ちょうだい」 「|呆《あき》れたわね!」  プソスカ怒《おこ》りつつも秀麗は半分に割った。  割ったら、なぜか焼売《しゅうまい》がゴロゴロ出てきた。他にも何やらいろいろ埋まっている。 「……なにこれ。昆布のおにぎりじゃなかったの」 「ふっふっふ。俺特製『隠《カく》れんぼにぎり』! 昆布と焼売と梅干しと漬物《つけもの》と玉子焼きとタラコがあちこちに隠れてる。海苔も合わせて七味。おかずとメシが一緒にとれるすぐれもんだ」 「……………告告………隠れてないわよ、ぜんぜん。丸見えよ」相変わらず大雑把が服着て歩いているような男である。  秀麗は全部二等分になるようにそれぞれわけた。  燕青は三口であっというまに平らげた。秀麗が 「いただきます」といってかじりついた直後にすでに食べ終わってしまっている。牛みたいに胃袋《も、ぶくろ》が四つあるに違《ちが》いない。 「で? 詰って?」  秀麗はおにぎりを食べながら、じろりと燕青を脱《にら》みつけた。 「……御史台に正式に入るって聞いたんだけど、本当?」 「姫《ひめ》さんの義行としてだろ? ああ、今日聞いたから受けた」 「なんでよ一 「なんでって? なんで姫さん怒ってんの?」 「だって燕青、目標があって、この貴陽にきたんでしょう? ちゃんと勉強して、国試受かって中央官になりたかったんでしょう。いつまでも私のお守《一じ》りをしてくれることないのよ。そりゃ、こないだは無理言って本当に悪かったと思ってるわ。でもあれは臨時で�」燕青はピソときた。      . 「ははあ、わかった。姫さんには、今の俺が自分の亘りたいことを放《はう》って、姫さんのことぽっかり優先して甘やかしてる、ダメな静蘭みたいに見えるわけな〜」秀戯はギクリとHを泳がせた。図星だったらしい。  燕青はどういうべきか、しばし考えた。実際自分と静蘭は違《ちが》う。 「……そうだなぁ。姫さん、虎林郡《こりんぐ人》で俺がいったこと、覚えてるか? 姫さんの人生、俺が丸ごと引き受けてやるって」ふと、秀麗が燕背を見た。 「何があっても、俺が姫さんを官《ヽ》吏《ヽ》の《ヽ》ま《ヽ》ま《ヽ》で《ヽ》いさせてやるっていったこと」 「……うん」 「藍州に行く前、俺は別に何が何でも制試受かって中央官になりたいから貴陽にきたわけじゃねうて、言ったよな。俺は、そ《ヽ》の《ヽ》た《ヽ》め《ヽ》にきたんだよ」おにぎりを食べながらよく意味を岨|噂《うわさ》し、理解した秀鹿は目を丸くした。 「……だってそれって」  秀寮の人生を引き受けにきたなら、燕青が秀席の人生に付き合ってくれるということだ。  これから先も、ずっと。  燕青の深い黒檀《こくたん》の目が、間近で細められた。半ば面白《おもしろ》がり、半ば試すかのように笑う。 「あのなー、ずっと俺が一緒だなんて思うなよ。俺が姫さんに見切りをつけていなくなることだって|充分《じゅうぶん》あるぜ。つーか、姫さんが官吏でなくなったら、|間違《ま ちが》いなく俺は消える。官吏じゃねぇ姫さんのそばにいたって、意味がねーからな。俺《ヽ》は《ヽ》静《ヽ》蘭《ヽ》じ《ヽ》ゃ《ヽ》な《ヽ》い《ヽ》んだ」笑ってはいたけれど、深く響《け▼げ》く声でゆっくりと|容赦《ようしゃ》のない言葉をつきつける。  けれどそれこそが、燕青だった。優しいけれど、甘くほない。 「でもさ、いったろ。俺は姫さんの見たいものが見たいんだ」  その日に映る世界を見たい。  どんなときも、最後の最後まで燕青の 「強さ」を頼《たよ》らない。秀麗が燕青に望んだのは、いつだってたった一つ。誰《だれ》も傷つけないで。全部丸ごと守ってみせるから、力を貸して。  秀農の傍《そば》にいれば、燕青は誰かを殺さなくてすむ。きっと深海魚のように深く呼吸ができる。  狂剣《きょう!?ん》のように 「壊《こわ》れた」自分の手でも、きっとまだ締麗《されい》なものを守ることができる。  だから燕青は秀麗の願いを叶《かな》えにきた。彼女が彼女のままであるかぎり。  その先に、燕青の見たいものもきっとあるから。 「だから俺は、俺の意思で引き受けたわけ。姫さんのためじゃなくて、俺のため。姫さんがイヤでも文句ゆー権利わーぞ」 「あるでしょそれは」 「確かに。じゃあいってもいいけど、まからんぞ」  秀麗は最後の焼売を食べた。食べて、これは静蘭がつくったものだろうと思った。  ……情けないけれど、本当は、ホッとしてもいる。 「まからんなら、しよtがないわね。でも燕青、約束してちょうだい。ちゃんと同試の勉強はつづけて、受けられるときがきたら受けて。私も勉強見るの、協力するから」 「……へーい」勉強嫌《ぎ——ーJ》いな燕青としては、国試受けずにすんでよかった〜と密《!?そ》かに思っていたのだが、そう甘くはなかったらしい。影月《えいげつ》に詰《 「》めlこまれた漢詩その他もすっかりどこぞへ飛んでったのに。 「なにその嫌《いや》そうな返事。あ、静蘭のほうがいいなら、静蘭に頼むけど」 「うお待て! それだけは|勘弁《かんべん》してくれ! 殺されるって俺!!姫さんがいい!!」  ふっと、扉口から静蘭の愉悦《軸えつ》の微笑《げしょう》がこぼれた。 「−わかりましたお嬢様。《じよ、ソさま》私も死んでもイヤですが、お嬢様たってのお願いなら、この脳みそ筋肉珍種《ちんし軸》のコメッキバッタを人間にしてみせましょう。−どんな手を使っても」 「ヤメロ‖‥どんな拷問《ごうもん》方法考えてんだお前。笑顔《えがお》が超《ちょう》こえーぞ!!」静蘭はつかつかと燕青に近寄ると、微笑を絶やさずドスの利《き》いた低音小声ですごんだ。 「あわよくばお嬢様と一対一になろうともくろもうなどといけずうずうしいぞ燕青!」 「何考えてんだお前は。純粋《じゅんすい》にお前と一対一で勉強すんのをイヤがってるんだよ」  秀鹿は指についた最後の米粒《.J】ヴ.一..バ》をなめとった。相変わらず仲良しな二人に、くすっと笑う。 「−燕肯、明日からこきつかうわよ。腹ごしらえしといてね」  なんとしても牢《ろう》の中の絳攸を助けなくてはならなかった。       ・魯・翁・  絳攸は一人きり、放《ほう》りこまれた牢の中にいた。  昼も夜もわからない薄暗《うすぐ・り》い闇《やみ》の中で、もう何日たつのかもわからない。  食事を運んでくる牢番以外は、他に人の気配もない。その牢番も、耳が聞こえず、口もきけないようで、話しかけても首を傾《かし》げるばかりだった。 (……確か御史大夫が旺李のとき、情報漏洩《ろうえい》の恐《おそ》れがないって理由で、わざと障害のある者を選んで御史台の獄吏《ごくり》にするようになったと聞いたことがあったが、本当だったんだな……)最初は、もう何もかもすべてがどうでもよくなり、出された食事に手もつけなかった。腹がすいていると思うこともなかった。そうして何度か手つかずの盆《ぼん》が上げ下げされたあと、いきなり牢番がぬっと入ってきたのだ。あのときはさすがに仰天し《ぎようてん》た。自分が弱いことを重々承知している練牧は、かなりびびった。牢で獄吏に理不尽《りふじん》な扱《あつか》いをされるのはよく聞く話だ。 (な、な、殴《なぐ》り殺されるかもしれん……!)  本気でそう思った。殴り殺されたらどうしよう、いやどうにもならん、でも迷子の|遭難《そうなん》死よ  りほ本望《はんもう》だなどと|走馬燈《そうまとう》のようにとりとめもないことを考えつつ、身構えた。  だが口のきけない牢番は、食事の盆を指さし、絳攸の前に陣取《じんど》った。そのまま向かい合って一刻たち�相当の緊張を強《きんちょうし》いられつづけていた絳攸の腹が鳴った。そこでようやく絳攸は、牢番の意図を理解した。  おそるおそる椀《わん》を引き寄せ、直接口をつけて冷たくなった汁《? 軸》をすすりこむと、牢番はニコニコした。全部平らげると、満足そうに戻《一じご》っていった。  なにがしか腹にものを入れたせいか、絳攸はその日、久しぶりにぐっすりと眠《山む》った。  起きると、相変わらずいろいろへこんではいたものの、気分が少しよくなっていた。  それからはとりあえず出されたご飯は食べるようになり、いつかその中番がいつもニコニコしていることにも気がついた。その笑顔を見ていると、なんとなく劉輝を思い出した。 (もう何も考えたくないと思ってたんだがな……)  絳攸は牢に入れられるとき、身体検査で身ぐるみ卸《_r�》がされたが、ほldつだけ、返されたものがある。返さざるをえなかったというのが正しい。  絳攸は掌《てのけ▼ら》を見た。これだけは、たとえ御史大夫の葵皇毅であったとしても、|奪《うば》うことはできない。これを与《あた》えてくれた人以外は、誰にも。  �花菖蒲《はなしようぷ》″が彫《ま》られた佩玉。《はいぎよく》絳攸は、掌と同じ温度になったその石を、もう何十度目かしれず、撫《な》でた。  皮肉なものだと、絳攸は自噺《川しらよう》した。  劉輝よりも黎深を選んで、この牢に放りこまれたのに、今の絳攸がもっているものといったら、この�花菖蒲″一つきりなのだ。 (あいつらは……もう帰ってきたのか……?)  楸瑛を追っかけて、王が藍州へ飛んでいった。秀麗がその王を追っかけて、藍州へ向かったらしいことも、聞いた。彼らはもう帰ってきたのだろうか。  轍嘆は……どうしたのだろう。  ちゃんと王と一緒に、帰ってきたのだろうか。王の傍にいるのだろうか。藍家と王と、どちらかを選んだのか。�花菖蒲″の剣《けん》は−あいつの手に戻ったのだろうか。  絳攸は自分の�花菖蒲″をまた撫でた。  楸瑛が何を選び、何を捨てたにせよ、少なくとも今の絳攸のように無様なことにはなっていないはずだった。藍州に帰る前、すでにあの男はどうするべきか決めた顔をしていたから。  だが……緑牧は何も選べなかった。選べずに、こんなところにいる。 (……全員、無事に……帰ってきたんだろうな)  ……帰ってきたら、俺が陸清雅に捕《つか》まったって聞いて、何を思うだろう。 (秀麗……は、スッ飛んでくるかな)  何があったんですか緯紋様!! 陸清雅なんかにやられるなんてっ! そう|叫《さけ》んでこの格子《こ、フし》をガタガタ揺《畑》すぶるのが目に浮《う》かぶようだ。   −上で、待っていると、約束したのに。 (あいつらには、ちゃんと言わないと)  約束を、破ってしまうのだから。  秀麗がくるのを待とう。待って、ちゃんと話をしよう。投げ出しっぱなしではなく。  この�花菖蒲″も、返さないといけない。 (返して�)  ……そうして、自分の掌には、最後にいったい何が残るのだろう。  大事な、ものが、たくさんあったはずだった。  そのなかの何も選べずに、たった一人と引きかえにして、全部手放した。  それが、あの人の役に立つなら構わない。何も|後悔《こうかい》はしない。  ……なのに、心が痛かった。痛くて痛くてたまらなかった。  誰も来ない牢屋《ろうや》。  足音が聞こえるたびに、顔を上げて、そうして何度も期待は失望にかわる。  ……本当は、わかっている。黎深はこない。  黎藻が絳攸を助けようとする気があれば、そんなのはとっくにやっている。  動かないこと、それ自体が黎深の意思ということだ。   −お前を助ける気はない、と。  必要とされたかったのに、最後までそうではないことを思い知らされる。  �花菖蒲″を|握《にぎ》りしめる。ひんやりとした感触《かんしょく》に涙があふれる。  いつも自分は間違《 JLr.カ》える。  何がいいか、わかっているはずなのに。  いつもその道を選ばない。  誰《だーl》がいちばん自分を必要としてくれているのかさえ、絳攸はわかっているのに。 (誰がー)  そのとき、足音が聞こえた。猛然《もうぜん》と誰かが駆《わ》け寄ってくる。 「あっ、主上、《Lゆじょう》走ると危険ですよ! 絳攸は逃《に》げませんて−ていうか逃げられませんから」楸瑛の声が聞こえたと思った瞬間、《しゅんかん》誰かが格子をつかんだ。 「経紋日‥」  絳攸は目を丸くした。−劉輝?  暗くて、顔がよく見えなかった。 「経倣−余が、余が不甲斐《ふがい》なくて、すまぬ。たくさん|怒《おこ》ってくれたのに−」  王がこんなところへノコノコくるんじゃない! と怒鳴《ごな》ろうとしたが、声が出なかった。  どうしてお前が謝るんだ。 (謝るのは俺だろう)  俺のせいで、お前がますます孤立《こりつ》するのがわかっていたのに、何もしなかった。  �花″を贈《おく》られた臣下が牢に放《はう》りこまれて、ますますお前は窮地《きゅうら》に立たされる。  吏部侍即の印を自分から放り投げ、黎深を諫《いき》めることができなかった。  お前がくる前に、何もかもあきらめてしまった。  ……お前より黎深様を選んでしまった。   −信頼《しんらい》に応《こた》えることが何一つ出来なかった。 (なのにどうしてお前は�)  まだ俺を待ってくれている。こんなところまでくるんだ。王がくるべきところじゃない。  楸瑛の声が、何かに気づいたように不審《ふしん》なものに変わる。 「……緯倣? おい、緯倣?………主上、何か少し……おかしくないですか?」  楸瑛が帰ってきたのか。絳攸はポッとした。俺の……何がおかしいって?  何か言わなくては。顔を見て、謝って。……渋々《しぷしぷ》でも何でも�花菖蒲″を返して。  言わなくてはならないことが、たくさんたくさんあるのに。   −格子の向こうの劉輝と目があった瞬間、カチン、と頭の中で何かが断《た》ち切れる音がした。 「……鋒倣?」  どこかで、鳥の羽ばたきが聞こえた。  その懐《なつ》かしい−本当に懐かしい音に引き込まれるように、絳攸は目を閉《と》じた。      ■書書▼潔さまどろみの中で  秀麗がその声に起こされたのは、ちょうど寝入《ねい》りばなの頃合《ころあ》いだった。 「秀麗殿! 寝てるところ申し訳ない!!すまないが起きてくれ!」  秀麗はいきなり自室の窓を叩《たた》かれ、仰天し《ぎようてん》た。この声は。  慌《あわ》てて飛び起き、窓を開ける。 「楸瑛様!?」  楸瑛は夜着の秀贋を見てさすがにひるんだ。ちょっと目を逸《すて》らす。 「ごめん、本当に。……つておわ!」  楸瑛めがけて包丁とともに冷ややかな声が飛んできた。 「�−堂々とお嬢様に夜這《じょうさまよば》いとは、イイ度胸ですね、この無職が。今すぐ死んでください」 「ごめんって! 火急の事態�かもしれないんだ。|勘弁《かんべん》してくれ静蘭!」  さすがに秀贋は顔つきを引き締《し》めた。こんな真夜中に、いきなり窓を叩いて秀麗を起こすとは、確かに尋常《じんじょう》じゃない。 「−何があったんですか」       ・鴇・翁・ 『秀離殿、今すぐ絳攸の様子を見にいってくれないか。少し、様子が変なんだ。いくら呼んでも返事をしない。暗いから判然としなかったが、|鍵《かぎ》を開けて中に入れるのは御史だけだ。ここで王の権力でむりやり押し通すのもまずい。頼《たの》む。見に行ってくれ』楸瑛の言葉をきいた秀席はすぐさま登城した。一緒についてきてくれた静蘭と燕青を自分の御史室に残し、清雅の室《へや》を叩く。  すると、こんな真夜中だというのに、すぐに|不機嫌《ふきげん》そうな声が返ってきた。               r l tL                ◆ノ・’t 「……誰だ」  秀贋は自分の頭をかち割りたくなった。自分が 「さー明日から仕事よ!」なんてノンキに寝ている間も、清雅は仕事をしていたのだ。というか本当にいったいいつ寝てるのか。 「私よ。遅くに悪いけど、ちょっと頼《たの》みがあるの」  足音が近寄ってきて、扉を開けた。  清雅は秀麗を見て、ちょっと目を丸くした。次いで唇をつりあげる。着の身着のまま、結《ゆ》わずに垂らした秀麗の長い髪《かみ》を、清雅はひとふさすくいあげた。口づけるように層に寄せる。 「なんだ。やけに除《すき》のある姿だな。官服だけは着てきましたって?」 「う、うるさいわね。ちょっと急いでたのよ一 「で? 真夜中に俺を訪ねて何を『お願い』Lにきたって?」  いちいち嫌味《いやみ》な男だ、と秀麗は思った。 「経倣様の牢《ろう》の鍵をかしてほしいのよ」 「は?お前のぶんは明日−もう今日かー渡《わた》すといったはずだが」 「いますぐ必要なの」  清雅はじっと秀麗を見たあと、|踵《きびす》を返した。 「……わかった。俺も行く。ちょっと待ってろ」  清雅が御史室に戻《もゾー》った。開いたままの扉から、中が見える。  清雅の室は、秀麗の室の三倍はある広い室のはずだが、同じ広さに見えるほど資料や書物があちこちにうずたかく積み上げられている。しかも清雅が一人で占領《せんりょう》している。  鍵をもって戻ってきた清雅について、牢へ向かう。 「……あんた、御史義行はつけないの?」 「一人で充分だ《じゆうぷん》。誰かいると気が散る。はかどらない。|鬱陶《うっとう》しい。仕事の|邪魔《じゃま 》だ」 「……あ、そう。まあ、そういうと思ったけど」  とはいえ、清雅の仕事量は半端《はんば》ではない。それを一人で、しかもこんな真夜中までこなしているのだから、体力的にも精神的にも相当疲《つか》れているはずだった。  T……いまも、なんか顔色悪い気がするし)  光の加減かもしれないが、だいぶ疲れているように見える。  しかし口だけは達者なのが清雅である。 「お前の御史義行だった榛蘇芳が、長官の間諜《かんちょう》でお前の情報逐一《ちくいち》もらしてたこと、もう忘れてんのか?どこまでおめでたいんだ。まだ長官だったからよかったようなものの�俺は長官でもごめんだがな�御史裏行なんぎ、どこの誰の手先かしれない輩《やから》をホイホイつけられるかよ。下手《へた》すりや情報漏洩《ろうえい》でこっちがクビだ。|冗談《じょうだん》じゃないね」相変わらず痛いところを|容赦《ようしゃ》なくついてくる男だ。 「こ、この仕事はそうかもしれないけど、他の仕事になっても?」  清雅は心底馬鹿馬鹿《ぼかげか》しそうに鼻をならした。 「俺は身の程《はど》を知ってるんでね。他人を蹴落《けお》としてここまであがってきたんだ。今さら誰かを信用するとか助けてもらいたいとか、思った時点でそいつらに逆に足をすくわれるだろうよ。そういう人生を歩いてきたことくらい、重々承知だ。俺は変わるつもりはない」  秀麗はHを喋《つぐ》んだ。  清雅とは一生相容《あいい》れないだろう。信念が根本的に正反対なのだ。だがおそらく、秀麗の人生では違《ちが》っていても、清雅の人生ではそれが単なる現実なのだろうともわかる。  秀麗が清雅の言葉で変わるつもりがないように、清雅もまたそうなだけだ。  清雅はからかうように秀麗を見おろした。 「なんだ、心配してくれてるのか?」 「あんたの未来は別に心配してないけど、今のあんたは少しね」 「は?」                                        ユ 「顔色悪いからよ。寝《 一▼》てないんじゃないの」  清雅は額を押さえた。舌打ちする。 「……お前に見抜《みぬ》かれるとは最悪だな」  しゃべっているうちに御史牢についた。  目下、朝廷で囚人《らようていしゅうじん》を入れる牢は主に刑部の牢だが、御史台にも牢はある。御史台の性質上、政治犯が多いため、刑部の牢ほど頑強《がんきょう》ではなく、またあまり長く人を入れることもない。拘束《こうそく》して訊問《‥じんも人》したら、あとは裁判のために刑部の牢に送られるのが主だからだ。  御史の身分を証《あか》し、獄吏《ごくり》に中に入れてもらう。すると待っていたように牢番が二人を見てホッとした顔をした。近くにいた秀麗の袖《そで》をひっぱって連れて行こうとする。 「わ、ちょ、ちょっと待って」  強引《ごういん》に牢番に引っ張られた秀麗は、階段のところでつまずき、体を崩《くず》した。  下に転げ落ちるのを覚悟l《かくご》したが、すんででうしろから腰《こし》を引き寄せられ、抱《だ》き留められた。 「危ないな」 「……清雅……」  耳に触《ら》れそうなほどすぐそばで、清雅の|呆《あき》れた声がした。腰と腕《うで》に清雅の腕が回ったままだ。  相変わらず見かけより力がある。簡単に自分のところまでピクリと引きあげた。とはいえ、疲《け》労《ろう》がたまっているのは本当らしく、疲れたように秀麗のうなじあたりで息をついた。 「疲れているのに体力使わせるなよ……。さーて、こういうとき|普通《ふ つう》なんていうもんだ?」  言うまで放さないらしい。うしろから抱きしめられたまま、顎《あご》を軽くすくいあげられる。 「く……ど、どうも……アリガトウございマス……」 「すごい棒読みだな。清雅様、だろ」 「そこまで譲歩《じょうは》はしないわよ」 「まあ、お楽しみは先に延ばしておくか。外野もいるしな」  トン、と秀麗を階段に降ろす。少し下では外野扱《あ1か》いされた牢番が、おろおろしている。一生《いりしよlつ》懸命《けんめい》秀麗に向かってぺこぺこ謝っている。秀麗は気にしないでいいと笑って手を振《・い》ったが、さすがに顔つきを引き締めた。確かいま牢にいるのは締倣だけだ。ということは−。 (やっぱり緯紋様に何か−?)  清雅も、牢番の様子に異変を感じたらしく、表情を変えた。 「行くぞ」  絳攸は牢の奥にじィっとしていた。しかし微動《げごう》だにしない。眠《ねむ》っているにしてほ|奇妙《きみょう》だ。 「経倣様……繚紋様、秀麗です。経紋様!」  何度か秀鹿は呼びかけ、何の反応もないと悟《さし」》ると、すぐに清雅が鍵を開けた。  ずかずか乗りこむ。秀醇も続いた。地下牢はひんやりと寒く、秀麗は体を震わせた。  絳攸の前までくると、清雅は問答無用で平手を打った。しかも《−》両《1−uす》類《‘/Ll一’》に。 「ちょっとあんたいきなりなんてことすんのよ!」  秀庫が慌《あわ》てて間に割りこんだ。清雅は顎をしゃくった。 「|拳《こぶし》でないだけマシだろ。手加減はした。どうだ」  秀脛が振り返っても、絳攸は何も反応しなかった。ぼんやりと虚《うつ》ろな目には、意思というものが欠けていた。秀麗は芯《しん》が冷えた。 「……なにこれ」  秀麗は絳攸を揺《ゆ》すぶって何度も呼んだが、経他はやはり何の反応も返さなかった。 「清雅、知ってた?」 「知ってたらお前に会わせるかよ。毎日報告はあげさせてる。今日も異状はないって話だったが……面会Lにきたのは今日の王と藍楸瑛が初めてか」 「あの二人が何かするわけないじゃない!」 「そんなのはお前の勝手な理屈《りくつ》だろ。……ちっ、他《はか》に面会はゼロか」記録を見る限り、放《ほう》りこまれてから今日の二人まで、面会申請《しんせい》をした者は誰もいない。  清雅はイライラとした様子で、乱暴に錠《じょう》をおろそうとした。けれど|珍《めずら》しく手こずって、何度目かでようやく錠がおりた。そんな自分に余計苛立《いらだ》っているのか、舌打ちする。 「……清雅、もしかしてあなた経倣様に−」 「拷問《ごうもん》なんかしてないぜ。疑うなら調べてみりやいい。傷一つないはずだ」  清雅はさっさと踵を返した。秀麗は|仰天《ぎょうてん》した。 「ちょっと清雅!?どこ行くのよ」 「あの状態じゃ、何も聞けないだろうが。裁判はなしだな」 「裁判はなしって�」 「ばか。見ればわかるだろ。あれで吏部侍即が務まると思うか」 「…………」 「李縁故は吏部侍即としての|充分《じゅうぶん》な資質があります、バッチリです、まともな判断能力も政治能力も責任能力ももってるから|大丈夫《だいじょうぶ》ですとか、いうわけないよな」清雅は|鍵《かぎ》を掌上で投げた。カシャン、と鍵と金輪がこすれて、金属音をたてる。 「裁判なんかしなくても、あれじゃ免官は決まりだ。精神に問題あり、官を退いて養生すべしって書いて終わりだ。仕事が一個減ったな」 「ちょ! あんたおかしいとは思わないの!?」 「立て続けに精神にくるような状況が《‥し上ごり竃−よ・.ノ》ありや、こういうことは別に珍しくない」 「経紋様は……そんなに弱い人じゃないわ」 「ほっ。いつもながらお|偉《えら》い言いぐさだな。お前が李絳攸の何を知ってるっていうんだ?」秀麗は目を喋んだ。 「俺の仕事はおかしくなった李絳攸を元に戻《もど》したり、原因究明に|奔走《ほんそう》することじゃないんでね。それは医者の仕事で、俺たちの仕事じゃない。構ってられるか一  清雅が鍵を牢番に放り投げる。  秀麗は横から飛びつき、牢番の手に渡《わた》る前に鍵を|奪《うば》った。  手を差し出しかけていた牢番は|呆気《あっけ 》にとられた。清雅も沈黙《ちんもく》した。今のはまるで−。 「……池のカエルかよお前……見事な跳躍だ《ちようやく》ったな。何してんだ。ちゃんと返せ」  秀麗は鍵をさりげなく胸にねじこむと、腰に手を当てて清雅と相対した。 「ふ……清雅。あんたはてんで緯倣様のことをわかってないわ」 「ああそうかよ。ビーでもいいが返せ鍵。さりげなく堂々とバクんなよ」         lノ  伸《バ)》びてきた清雅の手を、秀麗はビシッと打った。 「ちょっとあんた女の子の胸に堂々とさわろうなんてイイ度胸してるじゃないの」 「バ力め。ない胸にさわれるか」 「ぐっ」  とはいえ、清雅は手を引っ込めた。十三姫の扮装《ふんそう》をしたときもそうだったが、清雅はごくたまに紳士《しんし》的なところもないではない。清雅は|不機嫌《ふきげん》そうに秀麗を睨《にら》みつけた。 「この鍵、私に預けて。私はあんたと違って、何が起こってるのかサッパリわかってないんだから。何もしてないうちに、このまま締紋様を紙切れ一枚でクビにするのをハイそうですかな                                                                                                                                                                  ノんて認められないわ。裁判までまだ時間はあるでしょう。ちゃんと手を《′》尽くさせて」そう、秀麗は絳攸からまだ何も聞いてない。 「私は、緯倣様にちゃんと話を聞きたいの」   このままだと、本当に絳攸は何も抗弁《こうベん》できないまま、罷免《けめん》されてしまう。  それが、本当に絳攸の意思だとは、秀麗には思えなかった。   あがってこい�と、言ってくれたのだ。  もし、本当に何らかの事情があって、罷免されることを絳攸が受け入れていたとしても、ちゃんと話をしてくれるはずだった。誰《だーl》にも何も言わずに、こんなふうに終わることを、彼自身がよしと思っているとは、思えない。 (それに−)  秀麗は、さっきの締牧を思い返した。  あ《ヽ》れ《ヽ》が、本当の緯仮の意思だと、秀麗は信じたかった。  それを確かめるためにも、ちゃんと終値の日から、彼の言葉を聞きたかった。 『お前が李絳攸の何を知ってるっていうんだ?』  確かに、秀麗は何も知らなかったのかもしれない。もしかしたら清雅より。  だったら、知ればいい。まだ間に合うはずだった。  絳攸が何を思い、考えているのか。  彼の本心を、他の誰でもない、彼自身から。 「いってみれば黙秘と同じようなものでしょう。そう見なせば、打ち切るには早いわ」  清雅は馬鹿馬鹿《ぼかばか》しそうに鼻をならした。 「葵長官に話してみるんだな。|了解《りょうかい》を得られたら、好きにすればいい」  秀麗はホッとした顔で額《うち寸》いた。  牢《ろーワ》の中にいた絳攸を思い出す。何を言っても、揺さぶってもダメだったけれど。  彼が掌に|握《にぎ》りしめていたものがある。暗かったけれど、見|間違《ま ちが》えたりしない。  ……かつて劉輝が下賜《かし》した�花菖蒲《はなしようぶ》″の佩玉を。       ・翁・畿・  秀贋が御史室に戻《もど》ると、静蘭と燕青の他に劉輝と楸瑛も待っていた。  これだけの大人数が入ると、清雅の室《へや》ほど広くない秀欝の御史室がめちゃめちゃ|狭《せま》く見えた。  劉輝は入ってきた秀麗に、勢いこんで訊いた。 「秀麗、絳攸は〜その、おかしいと思ったのは余と楸瑛の勘違《かんちが》いで、締牧は何もなかったか? ね、寝《ね》てた……だけだったか〜」秀麗は唇を噛《くちげるか》んだ。 「……見たほうが早いわ。きて。もう私の|鍵《かぎ》ももらったから、開けられるわ」   −そうしてトンボ返りで牢に戻り、絳攸の状態を格子《●Tつし》なしで確かめると、劉輝は絶句した。 「経倣!」  劉輝が揺《ゆ》さぶったが、なんの反応もなかった。  あからさまに異状だった。燕青はピタピタと絳攸の頬《はお》を叩《たた》いた。 「……殴《なぐ》っても、起きないよな!…⊥ 「それさっき清雅が遠慮なくやってダメだったわ」 「うーん、李侍郎さん……何も夢の中まで迷子になるこたねーだろ……」  誰《だll》もあえていわなかったことを、燕青はあっさり言った。楸瑛は顔を引きつらせた。 「燕青殿……それは思ってもいわないでくれ。でも経倣だからねぇ。仕方ないかな……。とりあえず医者かな。陶《と_つ》老師あたりをー」それを遮っ《きえぎ》たのは静蘭だった。絳攸の様子に、何かを考えこむように睦を鋭く細める。 「いえ……お嬢様、陶老師より、仙洞省《せんとうしょう》の誰かを呼んだ方がいいかもしれません」 「仙洞省……リオウくんとかってこと?」 「ええ……」  静蘭はそれ以上言わなかったが、思い当たる節があった。静蘭が公子だったときよりもさらに昔のことになるが、……たまに、同じような事例があったと学んだことがある。公《おおや!?》に出来ないことだったし、邵可に蘭事していた劉輝では、おそらく知ることのない知識だったはずだ。  チラリチラリと、見え隠《・す.りく》れしはじめた。やらないとは言い切れない。 (標家……)  なら、仙洞省にきてもらったほうが早い。  誰より先に塵《きびす》を返したのは、秀麗ではなかった。 「�リオウだな。余が呼んでくる一劉輝は一度絳攸を振《.J》り返り、そして楸瑛とともに仙洞省に向かった。  仙洞省が他の官庁と違《ちが》うのは、一日中明かりが灯《とも》っていることだ。真夜中でも必ず誰かが起きている。星を読むのが仕事に必要だからと、聞いたことがある気がした。幸いなことにリオウと羽羽もまだ残っていて、事情を話すとすぐに牢にきてくれた。 「……術というより、暗示に近いものでござりまするな……」  一通り絳攸を診《み》た羽羽は、雪のような眉を寄せて呟いた。リオウは秀麗を振り返った。 「……おかしくなったのは、いつごろからかしばれるか〜」 「清雅……回健が《どうりょう》いうには、王と楸瑛様がいらっしゃる前の報告では、別段何も異状はなかったみたいなのよ。ちゃんと朝ご飯も食べたって牢番の日誌にも書いてあるし」 「……そのあと、王と藍楸瑛が面会にきて、異状に気づいたってことか。……王、会いにきたとき、何か気づいたことはないか? ちょっと声に反応した、とか」リオウの問いかけに、劉輝は必死で思い出そうとした。  あのとき、名を呼んで。そうだ。 「顔を上げた……気がする。でも、結局何も言わなかったぞ」  羽羽とリオウは、ほんの一瞬、顔を見合わせた。静蘭はそれを見過ごさなかった。  劉輝は羽羽を見た。 「羽羽殿……なんとかできるか?」  羽羽は真っ白な髭《けげ》を小さな指ですき、領《うなず》いた。 「……試みてみましょう。ただ……少し難しいかもしれません」 「難しい、とは?」 「これは暗示に近いものですゆえ……李侍郎ご本人のお心にひどく左右されまする。今の状況は……そうですね、少し迷いやすく道を変えられ、いつもとちょっと風景が違《らが》って、李侍即が出口を見失ってまごまごと迷って出られないでおられる、といったところでしょうか」  ものすごい沈黙が降りた。 (またか……) (夢でも……) (緯紋様……) 「だいぶ、深いところに落とされてしまったようですので、出口を探すのは、かなりの時間を要するかもしれません。わたくLにできることは、導き、出口をさがすお手伝いをすることなのです。見つけて、出てまいられるかどうかは、李侍郎次第《しだい》……」羽羽は小さな手で、ぽんぽんと絳攸の頭を撫《な》でた。 「それに……だいぶ、心身ともに疲《つか》れ切っておられまする。追いつめられれば、逃《に》げたくなることもございます。|眠《ねむ》りの内で迷っているのも、ゴチャゴチャとした自分の心の整理をつけている、ということでもござりまする。本当に起きたくないときは、自分で出口を消してしまうことさえできまする。|大丈夫《だいじょうぶ》。李侍郎は……まだこちらの世界に心を残しておいでです」  秀麗はハッとした。それはきっと、片時も離《はな》さない�花菖蒲《はなしょうぷ》″に違いなかった。 「明日から、わたくLが暗示をとくために、こちらへ日参−」 「−いや、俺がやる」  リオウの強い言葉に、羽羽はびっくりしたように、もこもこの白い髭をそよがせた。 「俺は『無能』だが、暗示に近いものなら、俺にも解けないか。できるなら、俺がやりたい」  羽羽の手助けで『入る』ことさえでされば、自分にも暗示を解く手伝いはできる。  それに、リオウは羽羽にあまり負担をかけたくなかった。  羽羽は少し沈黙《ちんもく》した後、頷いた。 「リオウ殿……わかりました。ではわたくLがお手伝いいたしましょう」  秀罪は羽羽にそっと尋《たず》ねた。 「羽羽様、私たちに何か、できることは?」 「もちろん、たくさんござりまする。それはまた、リオウ殿が申し上げるかと思いますが……。少しゅっくり休ませてさしあげよう、というお気持ちでいらしてください」  劉輝も、楸瑛も、自分のことを思いだした。  劉輝は文字通り悠舜が与《あた》えてくれた時間に甘え、藍州に逃げた。  楸瑛はどうするべきか迷っているとき、劉輝が与えてくれた『休み』があった。  ……けれど、絳攸には、そういった時間が何一つなかったのだ。  それが、 「今」なのかもしれないと思った。 (思えば悠舜殿は楸瑛に関してはいろいろ忠言をくれたが、絳攸に関しては一切言わなかったから、余も何も考えずにそのままでー)戦慄《せんりつ》が走った。曇樹の言葉が蘇《よみがえ》る。 『鄭尚書令の何をご存じなんです?』  何を−?いや、馬鹿馬鹿しい。彼の言葉はいつも本気か冗談かわからないのに。  劉輝は昏々《こんこん》と眠り続ける繚牧を見た。 (大丈夫)  劉輝でさえ、逃げても帰ってこられたのだ。  生|真面目《まじめ》でいつも細々《こも」ま》と考えなくてもいいことまで考える絳攸が起きないはずがなかった。 「主上、《しゅじょう》そろそろ戻《もご》りませんと……」  劉輝の顔を見た概瑛は、苦笑いした。 「気持ちはわかりますが、主上はちゃんとお休みください。皆《みな》が心配します」  劉輝は頷いたが、視線は繚牧をさまよった。こんなに絳攸を迷わせた原因は、自分にある。 「……余が、絳攸に�花菖蒲″を贈《おく》ったのは間違いだったのだろうか……」  楸瑛は真顔になり、ゆっくりと首を横に振った。 「違《ちが》いますね。受けたのは繚牧です。それが間違いだったと思えば、返上します。私がそうだったように。絳攸もそれを見てました。でも、まだ返上してはいません。陸清雅にも預けないで、もったままこの牢《ろう》に入ったんです。主上、絳攸が迷っているのは確かです。でもそれは心を残している証《あかし》でもあります。……�花菖蒲″を返上したくないんですよ」全員が見たけれど、何も言わなかった。|握《にぎ》ったままの�花菖蒲″。 「主上が先に『間違いだった』というのだけは、|勘弁《かんべん》してください。……選んでも、戻る場所がなくなってしまうじゃないですか」劉輝は頷いた。その通りだった。  最後に、秀麿を見た。御史台が絳攸に関して『不適格』と見なせば、絳攸はクビになる。 「……秀廊」 「わかってる。長官にも清雅にも、まだ罷免《けめ人》のハンコは押させないわ。絶対なんとかする」  秀群は泣きそうな顔をした劉輝の頬《はお》に、そっと手を当てた。劉輝はその手を掴み、頷いた。       ・希・器・                                                                   ,い  御史台を出た劉輝は、静蘭と楸瑛を振《▼》り返った。 「……絳攸のことを、悠舜には即刻《そつこ一ヽ》伝えるべきだと思う」  静蘭はすぐに額いた。 「そうですね。多分、まだ残ってらっしゃると思います。−そっちの元無職ボンポソ、一人じゃ尚書令室まで入れない身分になったんですから、控《ひか》え目な顔でしょんぼりついてきなさい一静蘭が尊大に顎《..■1ヽ》で楸瑛をしゃくる。ものすごい上目線に、楸瑛はぶつぶつぼやいた。 「くそ……そりゃ、どんな職でもいいとはいったけれど……」  楸瑛の言葉に、劉輝は|驚《おどろ》いたように振り返った。みるみる顔が明るくなる。 「もしや楸瑛、孫尚書から武官の職をもぎとれたのか!?」 「はあ、ええ、まあ……」  やたら歯切れが悪い口調にも、劉輝は気づかない。勢い込んで訊《たず》ねた。 「どこの部署だ!」 「………………‥」  静蘭はやれやれと自分の眉間《みけん》をもみほぐした。 「日付が変わりましたので、今日付けですね。私の配下になりました。下っ噺《fふ》の」  劉輝は目を点にした。……え? 「兄上の……配下〜」 「ええ。私付きの雑用です。かろうじて武官という程度の下っ端です。まあとりあえず剣の所持だけは許されてますという職です。直属の手下は欲しかったですが、よりによっていちばんへソなのが回ってきて大変迷惑《め1.わく》ですね。使えなかったら即《そノ、》クビにするからな、藍楸瑛」もう二度と私の|面倒《めんどう》を増やすんじゃないぞという刺《さ》すような眼光に、静蘭に叩き出されてようやく自分探しに出てギリギリ出戻《でもご》ってきた二十六歳・楸瑛は反論できなかった。しかし今までちゃらんぽらんに生きていたツケが静蘭の配下なんていくらなんでも孫尚書はひどすぎる。 「…………まあ、そういうことです、主上。今日から静蘭の下っ端になりました」 「……え一と……」  劉輝は喜びたかったが、複雑だった。この兄の雑用なんて、紅黎深の雑用とどっこいどっこいの世知辛《せちがら》い職場だ。静蘭は劉輝には健しいが、その他に対するこき使いぶりは知っている。 「まあ、私の命令があれば、この下っ端の出戻りも主上の周りをある程度ちょろちょろできると思います。適当に雑用に使って構いませんので。きりきり働けよ、楸瑛」 「……はい」手下になった途端《とたん》、呼び捨てだ。楸瑛は公子時代の静蘭を思い出して切なくなった。清苑《せし.えん》公子に仕えたいと思っていたあの頃《ころ》の自分を蹴《†》っ飛ばしたい思いでいっぱいだ。 「じゃ、じゃあ悠舜の|執務《しつむ》室へ元気出して行こう!」  優しい励《�Jば丁》ましに、やっぱり劉輝を主君に選んで正解だったと、楸瑛はほろりときた。  悠舜の執務室が見えてくると、ちょうど誰かが|扉《とびら》から出てきた。だいぶ離《はな》れていた上、劉輝たちとは反対方向に去っていったので、向こうはこちらには気づかなかった。  劉輝たちは目を見交わした。予想外の人物だった。 「こんな真夜中に、旺季殿と……?」   それはもちろん、尚書令と門下《もんか》省長官が話をしてもなんら不思議はない。旺李がまた悠舜になんらかの文句をつけにきたのかもしれない。けれど真夜中というせいか、劉輝はほんの少しだけ引っかかった。静蘭は思慮《しりよ》深げに瞳を沈《ひとみしず》ませたが、すぐに劉輝に|微笑《ほほえ》んだ。 「主上が藍州に行っている間、旺季殿がたまに悠舜殿の仕事を手伝っていましたから、さほど不思議ではございませんよ」 「旺季殿が〜」 「尚書令の仕事を直接手分けして減らすことができるのは、門下省長官か中書《ち紬うしょ》省長官くらいです。中書省長官は空位ですから、旺季殿がなさってました」 「そ……・・うか」それもこれも、劉輝が旺李やリオウが反対するのも聞かず、自分の仕事を放り投げて藍州に逃《す●》げ出したせいだった。静蘭は劉輝の頭をボンと叩いた。 「さあ行きましょう。あなたは帰ってきたんですから、それでいいんですよ。もとはといえばコウモリのごとくその場凌《ぼしの》ぎの人生をテキト——に生きてきたどこぞの|坊《ぼっ》ちゃんのせいですし」 「……ご、ごめん……でも蠣煽《こうもり》って縁起《えんぎ》がいいんだよ……漢字が『福』と似てるから」 「ほぉ。もっててなんかいいことあった覚えがないがな」楸瑛はもう本当に 「どんな職でも」と孫尚書に言う前に時を巻き戻せたらと切に願った。  尚書令室に入ると、悠舜が驚いたような顔をした。劉輝はさっき旺李が何の用できたのか訊《き》こうかと思ったが、なんとなくいいそびれてしまった。 「主上……いかがなさいました。緯倣殿に会いにいかれたのでほありませんでしたか」 「実はそのことなんだが……」  劉輝が手短に絳攸の件を告げると、悠舜はすぐに顔つきを引き締めた。 「緯倣殿が……?」  悠舜の顔から、スッと衷情がかき消える。それが何事か考えているときの悠舜の癖《くせ》だと、今の劉輝は知っている。いつもの優しげな微笑と落差が激しいからか、少し冷たく見える。 「……少し、思い当たる節があります。先王や、そのl前の時代の話ですが、たまに似たような件があったと、耳にしたことがございます」静蘭は驚いた。……おそらくは劉輝でさえも知らない話を、悠舜はどこで知ったのだろう。  悠舜は博学だが、繚家に関わる案件は、それこそ彩八家の中枢《ち軸うナう》でなければ知るはずのない話だl。 「その話はもう少しあとでお話しした方がいいかもしれません。下手人がいるかもしれないと御史台に伝えたとしても、葵長官は黙殺《もくさつ》する可能性があります。昨日まで何の悩《なや》みもなく元気だった人が次の円突然《とつぜ人》……というならともかく、経倣殿の|状況《じょうきょう》ではありえなくもないことです。……何より、最後に会ったのが主上と楸瑛殿というのが、逆に逆手にとられかねません。今うかつに言い出すのは得策ではないでしょう」劉輝と楸瑛ほぎょっとした。……確かに、いちばんあやしいのは、最後に会った人間だ。 「何よりも吏部の件が差し|迫《せま》っております。御史台がこの機会を逃《のが》すはずがありません。経倣殿の状況をこれ幸いとしても、原因究明をするのはまずありえないでしょう。仙洞省でなんとかできるかもしれないというのなら、預ける他ありません。問題があるとしたら−」                                        、一.■七.づリ′  静蘭が難しい顔で頴いた。 「……�花菖蒲《はなしようぶ》″ですね。緯倣殿は�花菖蒲″を返上せず、もったままですからね」 「ええ……本当に万一の場合、絳攸殿が目覚めないままですと、罷免《けめん》は避《さ》けられません」                                                                                                   ヽ′  劉輝は二人の会話の意味を察し、息を呑《バ�》んだ。まさか。 「……そのときは余が緑牧から�花菖蒲″をとりあげ、その上で辞めさせろ、と……?」  静蘭は|溜息《ためいき》をついた。が、いっておかねばならないことだった。 「……�花″は王から絶対の信頼《し人∴∵い》を預かった証。いわば王の筆頭官吏です。それをもつ人間が、御史台に『官吏不適格』の烙印《ら! 、いん》を押されて退官させられたら、主上には臣下を見る目がなかった、と周りから判断されます。まだ退官前に王自らとりあげたほうが、経倣殿が�花″に足る官吏ではなかった、という形ですませられます。だからこそ、轍嘆もわざわざ大官をそろえた士で派手な剣仕合をして、返上したと明らかにしたわけです」劉輝が楸瑛を見ると、楸瑛は耳のうしろをかきながらも、はっきり額いた。 「……�花″をもったまま勝手に武官をやめたら、臣《ヽ》下《ヽ》が《ヽ》王《ヽ》を《ヽ》見《ヽ》捨《ヽ》て《ヽ》た《ヽ》、ことになりかねません。おそらく終値も拘束《一−.りそく》された時点で、あなたが帰ってきたら返上しょうと思っていたはずです。が、もし本当にこのまま目覚めなければ……そうするしかないと私も思います」劉輝は|拳《こぶし》を強く|握《にぎ》りしめた。以前だったら、そんなことは絶対しない、と言っただろう。けれど、今の劉輝はそれが正しいとわかっていた。王でありたいなら、それをしなくては、ますます劉輝の立場が悪くなることも。|脳裏《のうり 》に、絳攸がしっかりと握りしめてくれていた�花菖  蒲″が映る。いざとなれば、あの手から、むりやりむしりとることになるのだ。 「……主上、絳攸も……それを望んでいると思います」 「わかってる。……わかった。|覚悟《かくご 》……しておく」  劉輝は絞り出すようにそう告げた。  静蘭は思いついて、悠舜に訊いてみた。 「……悠舜殿、吏部は緯倣殿もですが、紅尚書も危ないでしょう。あの方も辞めかねません」悠舜と黎深が旧友と知っていてズバリ言う静蘭に、楸瑛は肝《きも》が冷えた。もう少し椀曲《えんきよ′〜》なものいいをすればいいのに。   けれど悠舜は訊かれることを想定していたかのように、静かな顔をしていた。 「そうですね。近々、二つの結果のうちどちらかになると思います」   鰍喋は口を丸くした。二つ? 「悠舜殿、四つでは? 吏部尚書だけ辞任、吏部侍郎だけ辞任、どちらも何か|奇跡《き せき》が起こってなんとか残る。で……あんまりいいたくないですが、どっちも辞任……」 「いえ、その中の二つはありえません。おそらくは�……」悠舜にはまるで未来が見えているかのようだった。そして二つがどれかは言わなかった。  次々と、櫛《くし》の歯が欠けるように人が欠けていく。  劉輝は繚瑠花に言われたことを思いだした。 「……宝鏡山で、繚家の人間に会い、言われた。王位を継《つ》げるのは余だけではない。余より玉座にふさわしい者はいる。繚家は余を認めぬ�と」  悠舜と静蘭はそろって弾《はじ》かれるように顔を上げた。  もちろん、いる。いま劉輝の目の前にも一人。けれど瑠花の言葉は、静蘭のことをいっているのではないようだった。そして確かに今、劉輝の吉葉に悠舜と静蘭は反応した。  |即位《そくい 》の折、劉輝しか残っていないといわれて王位についたが、他にー可能性のある者がいる。そして二人はすでに知っていたのだ。  知っていてあえて言わなかったのは、……二人ともに、劉輝が即位からして、玉座を継ぐ意志が薄《うす》かったことを知っていたからに違《らが》いなかった。 「……余が知るべきことがあるなら、教えてほしい。もう逃げない。何が起こっているのか、余は何をすべきか、考えるために知りたいのだ」  悠舜はふっと力を抜《ぬ》いた。やわらかく微笑む。 「……そうですね。では今回の件が終わったあと、内々に羽羽殿をお呼びしましょう。玉座に関しては仙洞省の管轄《かんかつ》ですから。私もきちんとおうかがいしたいと思っておりました」       ・報・翁・  牢に残ったリオウは、李絳攸を見て低く岬いた。まさか本当になるとは。 「……王と会うことで暗示が発動したってことか。仕掛《しか》けたのは伯母上《おぼうえ》か……」 「……主上が、九彩江に行かれた際に、暗示の発動媒体《ぼいたい》にされたのやもしれませぬ」  リオウは自分と珠翠を思い出した。自分の目で、珠翠の暗示が発動された。 「だが李絳攸が伯母上の暗示にかけられる|暇《ひま》はなかったはずだ」 「いえ、主上は�鏡″にされたのだと思われまする。李侍郎に会えば瑠花姫《ひめ》の術を反射するように仕掛けられていたのでしょう」(だが、なぜ李絳攸なんだ? 紅秀麗はともかく、伯母上は李絳攸に関しては別に−)いや。リオウは�邪仙教″《じやせんきょう》のときを思いだした。伯母上は″邪仙教″を餌《えさ》に、紅秀麗にちょっかいをかけたことがあった。紅秀鹿のなめに�藍龍蓮″が動き、紅家も動く。紅秀麗を手に入れるために、紅藍両家が|邪魔《じゃま 》になると踏《=》んだ伯母上は、あっさりとリオウの友人だった漣《−1ん》を切り捨て、締席《さllい》に引いた。伯母にとっても紅藍両家の力は邪魔だった。だからおそらく、藍楸瑛を追い落とす一件に、珠翠を貸《ヽ》し《ヽ》出《ヽ》し《ヽ》た《ヽ》のだ。そして今度は。 (李緯倣ってわけか……) 「何にせよ、瑠花様が直《じか》に仕掛けたものでなかったのが不幸中の尊いでござりました。そうであれば、『出口』も残らなかったでしょう。とはいえ、瑠花様の関《カムり》わった暗示は簡単に解けるようなものではござりませぬ。リオウ殿、少しずつ、なさりませ。一度だけのかけっぱなしですから、解ければ珠翠殿のように、何度も暗示が出ることもな�」こん、と羽羽が小さく咳《せ》きこんだ。                           _h  リオウは目を伏《す》せた。羽羽の体が、ますます小さくなっていくような気がした。 「……羽羽、どうすればいい?なるべくお前に負担をかけたくないんだ」  羽羽は|微笑《ほほえ》んだ。友人の樺瑞《かい紬》を思い出す。……彼もよくそんなことをいってくれた。 「李侍即を導くためには、リオウ殿の意識を『外』に半分残したまま、李侍即の『内』に入る必要がござりまする。問題は『|潜入《せんにゅう》る』ことでござりまするが……」羽羽は絳攸の握りしめる�花菖蒲″の佩玉《はいぎよく》を見た。彼には『外』に心を残すものがある。これは彼の心の半分。この�花菖蒲″があれば、リオウも羽羽のかわりができるだろう。                                                                                                       ,い 「わたくLがリオウ殿に術をかけましょう。この�花菖蒲″に触《▼》れれば、リオウ様が李侍即の『内』に『潜入る』ことができるように。あとは、わたくLを真似てくだきりませ」羽羽の差し伸《の》べた小さなしわくちゃな手を、リオウはとった。いつからかリオウほ、この小さな手を見ると心の奥が痛むようになった。正確には、この手が霞《かすみ》のように消えてしまうことを思うと。その感情を、リオウは知らなかった。 「……李侍郎は本当に深いところに落とされておりました。そこは……誰もが必ずもつはじまりの|記憶《き おく》。わたくLでも−たとえ瑠花様であっても、手出しのできぬ場所にござりまする」原風景、と呼ばれる、ただただ安らぎと幸せに満ちた場所。  瑠花がそこに落としたのは正しい。絶対の幸福のたゆたう場所から出たいと思う者は稀《まーl》だ。  彼が自らそこから出ない限り、羽羽にもリオウにもできることは何もない。けれど。  羽羽は微笑んだ。もう一方の手で、�花菖蒲″の佩玉に指を触れる。 「本来なら、より奥へ奥へと行ってしまうものですが……李侍郎には強力な助っ人がおありになるようでございまする。あたくしたちも、その力をお借りすることにいたしましょう」  そして、羽羽はリオウの手をとったまま、『道』を繋《つな》いだ。       ・翁・器・  ……鳥の羽ばたきが聞こえる。  絳攸はぼんやりと日を開けた。小鳥が二羽《わ》、つぶらな黒瞳《こノ1とう》で絳攸をのぞきこんでいる。  T……文鳥……?)  そうだ、文鳥だ。白い方が白文烏で、灰色が桜文鳥だ。されいだな、と絳攸が見つめていると、二羽の文鳥が朱い喋《あかくちばし》を寄せ�次の瞬間、《し紬んかん》ぐさぐさっと絳攸の頭を突《つ》き刺《さ》した。 「−1−痛−つつ!!」  絳攸はあまりの激痛に飛び起きた。血が|隙《すき》き出すくらいの|容赦《ようしゃ》のなさだったが、不思議と血は出ていない。そしてようやく自分が畑の中で転がっていたことに気がついた。……畑?  「……なぜ俺は畑で寝転《ねころ》がっているんだ? というか、ここはどこだ77?」見渡《みわた》せば山間の畑のようだったが、なんでこんなところにいるんだ。確か自分は�。 「俺は……? 何をしていたんだったか〜」  何か大切なことがあった気がしたが、すべてが霞のように消えていった。  さやさやと、風が梢を揺《こずえゆ》らす音がする。絳攸は目を閉じた。ひどく心が安らいでいた。まる  で母親の胎内《たいない》に抱《だ》かれているような絶対の安心感と幸福が心を満たしていく。ずっとここに留《とと》まっていたかった。す《ヽ》べ《ヽ》て《ヽ》の《ヽ》幸《ヽ》せ《ヽ》が《ヽ》あ《ヽ》っ《ヽ》た《ヽ》場《ヽ》所《ヽ》。そう、ここから出たから、自分は−。  うっとりとまた微睡《まどろ》もうとしたとき、また文鳥たちがぐさっと絳攸の頭を突っついた。まるで絳攸を畑から追い立てるようにぶすぶすと突っつきまくる。 「−いだだだだ‖‥なんなんだお前らはー!!」  絳攸は容赦ない文鳥|攻撃《こうげき》から逃《に》げまくり、畑の中をぐるぐる駆《か》け回った。気づけば畑を出そうになって、慌《あわ》てて足を止める。ここから出たら《1ヽ11111》、悲しいことがたくさん起こる《1ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。 (……? なんで俺はそんなことを思うんだ?)  絳攸は振《ふ》り返った。そこにはこの畑に通じる一本の細い畦道《あぜみち》があった。見覚えのない場所のはずなのに、この道をたどれば|粗末《そ まつ》な家が一軒《いつ!?∵ん》あると思った。締牧はそこに行きたかった。         ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ  どうしても。  ふらりと足を向けたとき、まるでそれを引き留めるように畑の外から鮮烈《せんれつ》な声が聞こえた。 『決めた。お前の名は李絳攸にする』  絳攸は弾かれるように畑の外を見た。誰もいない。けれど今の声は確かに。 「……黎深様……」  この畑から出たくなかった。けれど、その声は絳攸にとってあまりに強烈だった。この畑のようなまったき安らぎなど一時もない。いつも絳攸を迷わせ、振り回す。つらくて悲しくてどうしていいかもわからない。それでも絳攸の心を激しく揺さぶる絶対の存在。  けれど感傷に浸《ひた》るまもなく、文鳥たちがまたもやぐさっと経倣の尻《しl−》を喋で突き刺した。 「いだー!!」  あまりの痛さに絳攸は涙目《なみだめ》でぴょいこら飛び上がり、気づけば|呆気《あっけ 》なく畑を出てしまった。  景色《けしき》が一変した。 『望むことはありますか?』  絳攸の目の前に若い頃《ころ》の黎深がいた。そして彼にちょこちょこくっついて回る子供の自分が。 『何かして欲しいことはありますか? れいしん様』                                                                〆ユーJ  黎深はうるさそうに子供の縁故を追っ払《...1■》った。 『何度同じことを言わせる。そんなもん何もないわ』 『でも……ぼくは何かお役に立ちたいんです』 『ばかもの。お前が何の役に立つ。お前はこの邸《やしき》でいちばん役に立たんやつだ。役に立つやつが欲しかったら別なところから雇《やと》ってるわ』十年後とまったく進歩がない|状況《じょうきょう》で、コウはしょんぼりとひききがった。                                                                                                                         ��ゃヽ  一  今度は百合が現れる。コウはバッと顔を輝《カ・す1りゼ一》かせ、百合に駆け寄った。 『百合さん、また何かぼくにしてほしいことはありますか? おっかいとかありますか?』  百合は少し、沈黙《ちんもく》した。その騰《ろう》たけてされいな顔から、微笑みが消えた。  見ていた絳攸は、昔を思いだして目を伏《ふ》せた。隼・そう、百合は最初の頃は繚牧がそう訊《き》けば、ちょっとしたおっかいでもなんでも 「じゃあ頼もうかしら?」と笑っていってくれた。け  れどいつからか、そう訊くと、困ったように口を喫《つぐ》むようになった。  そして、いつしか何も頼まなくなった。  絳攸には、百合が何を言うのかわかっていた。百合はコウの鼻をつつき、作り笑いをした。 『……何もないわ、経倣。ありがとう。|大丈夫《だいじょうぶ》よ』  必要とされなくなることを、締牧はひどくおそれた。  何もしなくていいといわれることが怖《こわ》かった。役に立たない人間は、いる必要がない《ヽヽヽヽヽヽヽ》。  だから、自分に何を望んでいるか知りたかった。彼らの望むようにありたかった。  それは拾ってくれたからでも、優しくされたからでもなく。  T・…俺が、黎探様と百合さんを好きになったからだ)  それまでボンヤリと世界を外から眺《なが》めるように生きていた子供は、何か不思議なあたたかさを知った。与《あた》えられるものではなく、自分の心からわきあがってくるもの。  もう二度と《ヽヽヽヽヽ》これを手放してはいけないと思った。ずっと傍《そば》にいさせてもらうためには、二人のために何かをしなくてはならない。コウはそうすることしか知らなかった。  だから絳攸は役に立てるように猛勉強《もうべんきょう》をした。黎深様は官吏だから、同じ官吏になれば役に立てるはずだった。成長すれば、きっと忙《いそが》しい百合さんの手助けもできるようになる。  なのにー結局大人《おとな》になっても、彼らのために何もできなかった。  それどころかよりによって牢《ろl・フ》に放りこまれて百合はさぞかし−。 (……牢……?)  絳攸はハッとした。そうだ。牢。俺は牢に放りこまれていたはずだった。  そのとき、絳攸を突っつき回していた自文鳥が絳攸の肩にとまり、朱い喋をひらいた。 「李侍郎殿」  しゃべった。  絳攸は耳を疑った。文鳥がしゃべった!!しかもどこかで聞き覚えがある声だった。 「う一さま!?」 「ほい。よかった。ようやく、お繋ぎできる場所までお出《——▼》でになってくださいましたか……」 「……俺を突っつきまくっていたのは羽羽様だったのか……」 「は? いいえ。わたくLとリオウ殿は何もしておりませぬが」……では、突っつきまくっていたのは文鳥の意志だったらしい。俺に何の恨《・リ・り》みがあるんだ。  それにしても絳攸は童話のような光景についホノボノしてしまった。かわいい。 「わたくしたちが李侍郎殿のためにできるのは、『出目』を確保し、『遺』をお教えすること」うーさま文鳥は絳攸を導くように飛んだ。黎深と百合とコウがいる過去とは反対の方向へ。 「李侍即、こちらへお進みくださいませ」  絳攸は最後にもう一度振り返ろうとした。けれどそれを|遮《さえぎ》るように白文鳥が告げた。 「主上があなたをお待ちにござりまする」  瞬間、絳攸の|脳裏《のうり 》に、牢に駆けてきた劉輝の顔が閃《ひらめ》いた。すまぬ、と謝った声が。  繚牧は振り返るのをやめた。  真っ白な文鳥が導く先に、|爪先《つまさき》を向ける。すると、みるみるうちに風景が変わった。  開けた視界を見て、絳攸は気が遠くなりそうになった。遥《はる》か向こうに遺らしきものが見えたが、まるで|巨人《きょじん》が|途中《とちゅう》で道をむしり取ったかの如《ごと》く、目の前は奈落《ならく》のような千尋《せんじん》の谷だ。  うーさま文鳥は、ピピピ、と桜文鳥に向かって教えをたれた。 「やはり瑠花姫は甘くございませぬな……。リオウ殿、このように李侍郎殿のお手伝いを」  橋が架《か》かるんだな! と思ったら、絳攸の眼前にどしゃつと縄梯子《なわぼしご》一式が降ってきた。 「ささ、李侍即、まずは頑張《がんぼ》って谷を降りられませ。降りたら崖《が!?》のぼりの道具を出しまする」 「おい李侍即、時間がないんだ。とっとと降りろ。杭《くい》と金槌《かなづち》もあるだろ」リオウ文鳥に怒《おこ》られた。絳攸はぶるぶる震《ふる》えた。ものすごい体力勝負だ。 (この谷をえんやこら降りるのか!?ツルッとすべっておっ死《ち》ぬんじゃないのか俺−)  杭と金槌をつかむと、うしろで黎深や百合の声が微《かす》かに聞こえた。  ドキリとした。振り返りそうになったが、それ以上にさっきの劉輝の顔が浮《−つ》かんだ。  いま、何をしなければならないかくらいは、わかる。経仮が黎深のことをずっと考えていたときも、劉輝はずっと絳攸を待っていた。−待っていたのだ。  絳攸は劉輝から逃げたかったわけではない。もう一度ちゃんと顔が見たかった。 「−ええい、やるぞ‖‥」  絳攸はガソガン金槌を打ち始めた。       ・藤・薔・  絳攸となんとか接触することができた羽羽は、ほっと胸をなでおろした。 (よかった……これでなんとか李侍即も……)  すべては絳攸を『繋《つな》げる』場所まで追い出してくれた文鳥のおかげだ。本来ならそれがいちばん難しいのだが、本当に助かった。カソのいいリオウはすぐにコツを飲みこみ、羽羽は一通り手順を教えたあと、|一緒《いっしょ》に『外』に戻《もご》った。一口でなんとかできるような深さではない。  そうして羽羽は、仙洞省に戻った。リオウと別れ、自室で一人になると、|膝《ひざ》が折れた。コテンと、まるで糸の切れた塊偶《カラクリ》のように小さな体が床《ゆか》に転がる。ぶわりと、全身から|汗《あせ》が噴《ふ》き出した。激しい|目眩《め まい》で点滅《てんめつ》する視界の中、令夢《llも.いん》の机案《つくえ》を震《ふる》える手できがし、寄りかかる。  羽羽は苦笑いした。 「……ふ……わたくLも……もう……年でござりましょうか……」  視線を落とせば、小さなしわくちゃな手が見えた。  もうほんの少し術を使っただけで、体がもたなくなっている。  羽羽は、|宰相《さいしょう》会議の折、劉輝の手を|握《にぎ》ったときに『視《み》た』光景を思いだした。王が九彩江で会った標瑠花は、羽羽の知る瑠花の顔ではなかった。離魂《りこん》の術を使い、その娘《むすめ》の体を借りていたのだろう。けれど、集中すれば、すぐに透《す》けて見えた。  |魂《たましい》だけが入っているせいか、初めてあったときと同じ、懐かしい姿をしていた。 「……大姫様《おおひめさま》……」  滝《たき》のように流れ落ちる豊かな美しいぬばたまの髪《かみ》。雪白の肌《はだ》に、真夜中のような黒瞳《こくとう》。それを困むけぶるような睫毛《まつげ》。小さな紅唇《こうしん》。桜貝のような爪《つめ》。当時の羽羽も男にしては背は低かったが、瑠花はさらに小柄《こがら》で、傍《そぼ》によると香《こう》のいい|匂《にお》いもして、本当にお人形のようだった。羽羽はいつもボンヤリ瑠花を見つめては本人にガ、、、ガ、、、怒鳴られるのが常だった。  負けん気の強さは人一倍で、切れ長の帆が《車なじり》ゆるむことなどなかった。|滅多《めった 》に笑ってなどくれなかった。小さな体に圧倒《あっとう》的な迫力《はくりよJ、》を備え、常にその明晰《めいせき》な頭脳で何かを考えていた。  年上の、美しく誇《はこ》り高く、知性を備え、古今東西の書物に通じた美姫《げき》。初めて会ったときから、ばかだ無知だ愚《おろ》か者もっと勉学に励《よヂ》めなどとずけずけ怒《おこ》られた。 『�外″は戦で荒《いくさあ》れておる。術でも知識でもいくらでも必要なものを得て、出て行くがよい。  標家一門は政事に関わらぬが鉄則じゃが、無関心であってはならぬ。ゆめゆめ忘れるでないぞ。  我らは戦わずに民《たみ》を守るのじゃ。�外″へ行き、世と人をその日で見て、考え、最後にそなたが正しいと思ったことを為《な》せばよい。繰家一門羽家の誇りを忘れずにあれ』強い人だった。  ……けれどあの閉《と》ざされた場所で、いつかどこかが狂《くる》っていった。  いや、違う。�薔薇姫《ぼらlひ.め》″を手に入れたときから、あの家はおかしくなっていった。  いつからか、瑠花こそが繚家の誇りを心の奥深くに沈《しず》めてしまった。  �外″にいた羽羽は、その変化に長らく気づけなかった。  瑠花は昔の瑠花のままだと、ずっと信じていた。いや、信じたかったのかもしれない。  少年の昔、憧《あこが》れた年上のされいな女性《ひと》。  思い出せば、今もなお鮮やかに。 『そなたはわたくLを裏切ったのじゃな。羽羽』  遠い過去から、瑠花の断罪の声が聞こえてくる。  そう……羽羽は瑠花でなく、戟華《せんか》王を選んだ。瑠花は|間違《ま ちが》っていると思った。昔の誇り高い彼女に戻って欲しかった。だから�黒狼《こくろう》″に繚家一門の秘を教え、�番薇姫″は去った。  破門はおろか、殺されるのを|覚悟《かくご 》したが、羽羽の身には不思議と何も起こらなかった。  ……そのかわり、何も変わらなかった。何一つとして。 『|馬鹿《ばか》だね、羽羽。変わるわけがない。なぜそんなことをしたんだ?』  樺輪に怒られたけれど、羽羽はわからなかった。  ゴホ、と咳《せき》が出た。ぜいぜいと、胸が嬬動《ぜんピう》する。ちっとも胸の痛みがおさまらない。  もともと繚一族は頑丈で長寿《がんじようちょうじゅ》だが、術者は短命。|奇跡《き せき》の力と引き替《か》えに、命を削《けず》る。  先王が逝《い》ってから、|騙《だま》し騙し使っていたけれど、それも、もう限界にきている。  あっというまに時は過ぎ、自分に残された時は少ない。  仕方がない。これは天命。|充分《じゅうぶん》すぎるほど生きた。  壊《こわ》れた人形のような体でも、せめてあと少し、リオウと王の楯《たて》になってやりたかった。  どちらも、迷っているのが、羽羽には見てとれた。  せめてあの二人が、道を選ぶまでは。 (大姫……)  王が直接耳にせずとも羽羽まで届いた、瑠花姫の願い。 『これでようやっと、璃桜《りおう》もわたくLを見てくれるはずじゃ』  しわくちゃの手。これほどの時が過ぎて、ようやく羽羽は認めた。  あの声も、あの眼差《まなぎ》しも、……弟の璃桜以外、何も見てはいなかった。  もういくら待っても、増花が昔に戻ることはないのだと、ここまできて羽羽は認めた。  何度か深呼吸する。そして、空気を求める魚のように、|天井《てんじょう》をふり仰《あお》いだ。 「……あなたのするべきことは、そんなことじゃない。あなたは間違ってる」  かつて樫瑞が何を言いたかったか、このときになって理解した。  直接あの人のもとへいき、そういえばよかったのだ。  ……でも、もう何かを変えるには、遅《おそ》すぎた。  王たちと違って。    ‖ 量  −  運命は割れの鐘を鳴らす  翌日、リオウは約束通りやってきた。なぜか楸瑛が一緒についてきた。  階段の下で待っている秀麗を見て、リオウは|溜息《ためいき》をついた。 「……あんたは仕事があるんだろ。行けよ」 「え?でも�」 「あんたの仕事は、李緑牧をなんとかすることじゃないだろう。いつまでも気にしてここらで雁首《がんくげ》そろえてたって、時間の無駄《むだ》だ。他《ほ⊥り、》に仕事は山ほどあるんじゃないのか」秀鹿は|驚《おどろ》いた。 『俺の仕事はおかしくなった李絳攸を元に戻したり、原因究明に|奔走《ほんそう》することじゃないんでね。  それは医者の仕事で、俺たちの仕事じゃない。構ってられるか』  ……まさか、清雅と同じことを言われるとは思わなかった。 「王を助けるって、いってただろう」 「……うん」 「じゃあ、自分の仕事をしてこいよ。あの王には、それが何よりの助けだろう。李絳攸が起きたあとの仕事が、あんたのやるべきことだろ。あんたにしかできないことだ。王だっていまここにこないで自分の仕事してるんだ」リオウは最後の階段を下りた。 「必要なときは呼ぶ。とりあえず今はこの男一人でなんとかなる。あんたと違って、将軍職解任されて|暇《ひま》なようだしな。俺がこき使うのは今のところこの男一人で充分だ《じゅつぷん》」 「……はっきりいうねリオウくん……」ぶつぶつと楸瑛がぼやいた。  秀麗は深く息を吸った。……リオウの言う通りだ。  秀麗は葵皇毅の室《へや》で偉《えら》そうなことをいって引き受けたくせに、いまだに何が起こっていたのかさえ、まだろくに知らない。  もし経倣様が起きたとしても、それでは何一つ役に立つはずがない。それに、秀麗には絳攸の件の他にも、御史としてやるべきこまごまとした仕事がある。それも、滞っていたきりだ。  反省した。こんなんでは、あっというまに葵皇毅にクビにされてしまう。 「−わかったわ。起きたあと、緯紋様があっさりクビにされないように、私は私の仕事をしてくるわ。何かあったら、いってちょうだい」階段を上がりかけた秀麗を、楸瑛が呼び止めた。 「−秀麗殿、頼《たの》む」 「はい。全力を尽《つ》くします」  ……秀麗が去ったあと、楸瑛とリオウが牢《ろーワ》に残った。楸瑛は興味深そうにリオウを見た。 「……で? 私は何をすればいいのかな?」  リオウは|鍵《かぎ》を開け、房《ぼう》に入った。  絳攸は前と変わらないように見えた。  確かに、こんな状態では、免官《めんかん》にせざるを得ないだろう。ーだが。  リオウは初めて自分の意思で、伯母《おぼ》に逆らうことにした。  リオウは楸瑛を振《−J》り返った。 「どんなくだらないことでもいいから、つらつら李絳攸との思い出話をえんえんつづけろ」 「……は?」  撒瑛は|呆気《あっけ 》にとられた。       ・畿・翁・  秀欝は牢から出ると、まっすぐに清雅の御史室を|訪《おとず》れた。  本当にバカだった。ちゃんと自分の仕事をしなくては、緯紋様に顔向けできない。 「清雅、いる? ちょっと借りたい調書があるんだけど」  返事がない。昨日の顔色の悪さを思いだした。扉を押してみると、開いた。 「……清雅?」  さすがに中に入ったらダメだろうと思い、入り口から顔をのぞかせる。  そして、ぎょっとした。清雅が|書棚《しょだな》に寄りかかるようにして座り込んでいた。 「げっ、清雅! ええうと、ごめん、入っちゃうわよ」  慌《あわ》てて駆《か》け寄る。呼吸が少し荒《あら》い。額に手を当てると、だいぶ熱かった。 「いわんこっちゃないじやないの。今から誰か連れてきて�」  立ち上がろうとすると、|手錠《てじょう》のようにガッチリ手首をつかまれた。その手も熱い。 「……歩ける。隣の仮眠《となりかみん》室まで支えろ」 「起きてたの」 「しばらくじっとしてようと思ってたら、寝《ね》てた。誰かさんがうるさくて、目が覚めたがな」 「あーはいはい。やせ|我慢《が まん》もそこまでくれば見事なモソだわ」清雅が書棚に手をつきながら、よろよろと立ち上がる。秀麗が肩を貸したが、中肉中背なのに筋肉があるからか、ずしっと重い。  歩きながら、清雅が訊いた。 「……で、借りたい調書ってのはなんだ」 「え? ああ、聞いてたの。緯紋様の件で、あんたが調べて見せられるのがあったら、貸してもらおうと思ったんだけど」静蘭の大まかな説明だけでは、さすがに事情はわかっても、どんなことを緯紋様がやらかしたのかまではわからない。吏部に聞き込みにいくのが当然だが、その前に清雅がまとめた調書  を見せてくれたらだいぶ詳細が《しようきい》わかると思ってやってきたのだ。ダメモトで。 (そんなのは自分で調べろ、とか言いそうだけど)  が、清雅はいわなかった。  秀麗の肩から手を外すと、机案《つくえ》にヨロヨロ寄った。 「なにやってんのあんた」 「……俺がぶっ|倒《たお》れてる間に家捜《やさが》しきれるのだけはカソペソ願いたいんでね。待ってろ」  積み重なった調書の下から、分厚い紙の束を引っ張り出す。バラバラと目を通し、領《うなず》く。 「……これならいい」 「えっ。ど、どうも」 「礼はいいからとっとと連れてけ」  病気になっても高飛車な男である。  なんとか隣の仮眠室まで運び、清雅を|寝台《しんだい》に横たえる。 「そこの……いちばん右端《みぎはし》の棚《たな》に熱冷ましの丸薬がある。出せ」  なんなのこのオレ様っぷりは−。秀麗はぶるぶるしながらも、相手は病人だと言い聞かせ、棚を開けた。|執務《しつむ》室と違《ちが》って締寮《されい》に整頓《せいとん》されてあるので、すぐに見つかった。  水差しから湯呑《�の》みに水を入れ、丸薬を清雅の口に放《はう》りこんで湯呑みを口許《くちもと》に当てる。どうせ飲ませろというに決まってるのだから、その前にやったほうがマシだ。  清雅は素直《すなお》にのみくだした。だいぶつらそうだ。  仕方がない。調書ももらったしー。 「帯、ゆるめるわよ」 「勝手にしろ。お前に寝こみを|襲《おそ》われるとは俺も終わりだ」 「ハイハイハイハイ」  秀麗は問答無用で帯をゆるめ、胸元《むなもと》をくつろげる。少し清雅の顔がゆるんだ。  後頭部の髪《かみ》もといてやる。秀髭はぶつぶつぼやいた。 「……なんか本当に寝込みを襲ってるみたいで、すんごいヤだわ」 「役得だろ。二度とできないぜ」 「どこがよ。私だって二度とごめんだわよ」 「そうか。俺はもう一回くらいならさせてやってもいい気になってきた」  笑《え》みを刻みながら、秀麗の腕《うで》をつかんで口づけるように引き寄せる。  秀麗はその額をついて枕《まく・り》に押し戻《も戸−》した。 「あんたが寝てる間に執務室を家捜ししたりしないわよ。大人《おとな》しくしてなさい」  清雅はぶすっと押し|黙《だま》った。……ばれている。  秀麗は手巾《てぬぐい》を冷水でしぼり、簡単に額や首筋の|汗《あせ》をぬぐった。またしぼると、おしぼりがわりに額にのせる。そして布団《ふとん》を掛《か》けておしまい。  さあ帰ろうと思ったとき、何を思ったか、清雅は秀麗の髪紐《かみひも》を引っ張った。拍子《けょうし》に髪がとけてしまった。清雅の掌《てのひら》に、長い髪紐が残る。 「あっ、ちょっと何すんのよ」 「うるさい。……腕を出せ」 「は? 腕?」  出す前につかまれた。何をするかと思ったら、清雅がくるくると秀麗の手首に髪紐を巻き付け、自分の手首と結んだ。ものすごい芸術的な早業《はやわぎ》だった。手慣れている。  秀麗はあんぐりと口を開けた。なにこれ。 「仮眠をとる。一刻したら起こせ」 「は!?私だって暇じゃ�−�だいたいこれなに!」  清雅は自分の右手首にはまる、古風な銀の腕輪《うでわ》をチラリと見た。  いつも冴《さ》え冴《ぎ》えと冷たい清雅の目が、一瞬だ《いつしゅん》け氷のように閉《と》ざされた。 「いったろう。俺は誰《だll》も信じない。さっきのお前の言葉もな。いいから一刻ほど俺の傍《モぼ》で大人しくその調書でも読んでろ。鋏も剃刀《lよさみかみそり》も手の届くところにないし、この結び目は俺にしか解《はご》けない。無理に引っ張れば俺が起きる。かわりに俺の寝込みを襲う許可をくれてやる」 「そんなもんいらないわよ!」 「そりゃ残念だな。まあその気になったら口づけでもなんでも好きにしてろ」そうして、とろとろと|瞼《まぶた》を閉じたかと思うと、清雅はまるで子供のようにストソと眠《ねむ》ってしまった。今までなんとか気力だけで起きていたらしい。 (こ、こ、この男はどこまで意地っ張りなの……)  秀麗はつながれた手首を見た。一応頑張《がんぼ》って片手で解いてみようとしたが、やればやるほどきつくしまってしまった。秀麗はしばらく無駄《むだ》な格闘《かくとう》をした後、降参した。 『俺は誰も信じない』  だから一人でぶっ倒れることになるのだ。  秀麗はあきらめて、寝台に寄りかかりながら調書を読むことにした。  そうと決めたら、秀麗は清雅の存在を頭から押しやり、熱心に読みこみはじめた。  ……しばらくして、系図に目を留める。 「……えフ⊥何度読み返しても、|間違《ま ちが》いなかった。 「……吏部尚書が私の叔父《おじ》? で、緯倣様とは養父子関係……つて——」       ・翰・巻・  バクリバクリと、吏部尚書宴に扇が《おうぎ》ひるがえる音がする。  黎深は一人、吏部尚書室にいた。そこは扇の音さえ聞こえるほど静かだった。  楊修からの命がいき、黎深を引っ張り出そうとやっきになる吏部官もこなくなった。  誰も|訪《おとず》れることなく、仕事もなくなった虚《うつ》ろな室《へや》で、黎深は毎日、ただそこにいた。  けれど、その日はいつもとは少し違った。 「�ええいどけ! いちいち許可などとってられるか‖‥」  黎深は|扉《とびら》の外から聞こえてきた友人の|怒声《ど せい》に気づき、顔を向けた。 「おい黎深!!」  衛兵を振《ふ》り切って足音高く吏部尚書室に討《う》ち入ってきたのは、やはり黄《こう》奇人だった。  奇人はつかつかと黎深の前に詰《り》め寄ると、机案ごLに黎深の胸《むな》ぐらをつかみあげた。 「�貴様はいったい何をしている‖‥」  黎深はうるさそうに眉根《ま紬ね》を寄せた。 「離《はな》せ」 「李侍即に関しても何も動かず−仕事も|一切《いっさい》せず、決裁はすべて楊修に任せきり。このままだと李侍即やお前自身の立場はおろか、尚書令たる悠舜の立場さえどんどん悪くなる一方だと、貴様にわからないわけがあるまいっ!!」黎深は眉を攣《けそ》めたまま、無言で奇人の腕をつかみ、乱暴に襟《えり》から外した。 「�だからどうした」  仮面の嚢で、奇人は言葉を失った。  ……だからどうした、だと? 「お前は……何が起こるか知っていて一」  知っていて、何もしなかったのか。李侍郎を助けようともせず、すべての仕事を|放棄《ほうき》して。  悠舜を助けるどころか、窮地《きゅうち》に追い込み。 「お前1お前は、どれだけ私たちが悠舜に助けられたと思っている!!」  鳳珠《はうじゆ》も、黎深も、いつもどこにいても異質だった。  国試で、この貴陽にきて、悠舜に出会い、初めて友人と呼べる存在を得た。  どんな情けないことも、|馬鹿《ばか》なことも、悠舜は笑って受け入れ、時には本気で|怒《おこ》ってくれた。  悠舜がいなかったら、鳳珠と黎深が友となることさえなかったはずだった。  あれほど好いていた悠舜を。その行動一つで、いくらでも助けることができるのに。 「見損《みそこ》なったぞ黎深!!貴様は何のために今まで吏部尚書でいたんだ!」 「いけません鳳珠!!」  殴《なぐ》りかかろうとした奇人を、追いかけてきた景《けい》侍郎が必死ですがりつき、止めた。 「やめてください! あなたまで御史台に目をつけられます!」 「くっ�」  副官の|叫《さけ》びに、奇人は寸前で|拳《こぶし》を止めた。  黎深の、かたく|凍《こお》りついた双鉾《そうぼう》を脱《にら》みつける。  ダメだと、奇人は悟《さレJ》った。この目をした黎深を動かすことは誰にもできはしない。  不意に、あはらしそうな|溜息《ためいき》がその場におちた。 「……おやおや、|騒《さわ》がしいと思ったら−戸部《こぶ》尚書でしたか。うちの尚書がまた何かご迷惑《めいわく》をおかけしましたか? 何もしてなくても《11111111》、いるだけでもう傍迷惑《はためいわく》で申し訳ありませんね」 「楊修殿……」  景侍即は入ってきた楊修に、いつも|穏《おだ》やかな眉をつりあげた。 「そのいいざまは何ですか。あなたの上司ですよ。敬意を払《はら》って接しなさい!」 「ええ。まだこのひとが上司なんですよねぇ。とっとと片づいてもらいたいもんですよ」 「楊修殿!」 「景侍即、あいにくですが私は、私の認めた人でなければ、たとえ上司だろうが敬意を払う気はこれっぽっちもない人間だと、あなたもよくご存じでしょう」かつて吏部侍郎候補だった楊修を、景侍即は知っている。  鮮烈《せんれつ》なほど才走り、そこにいるだけで誰もが振り返るような光彩《二うさい》を放つ若者だった。  確かに昔からHは悪かったが、こんな見下したもの言いはしなかった。  楊修はその声が聞こえたかのように、もう一度溜息をついた。 「景侍即。私はね、もうこの人に何かを期待することはやめたんですよ。ただそれだけです」  もう怒ることさえやめたのだと。  反駁《はんぼ′1》しょうとした景侍郎を止めたのは、奇人だった。 「�そのとおりだ、行くぞ、柚梨《ゆうり》」 「鳳珠……」  景侍郎は奇人に腕《うで》を引っ張られ、強引《ごういん》に室を出た。  回廊《かいろう》を歩き、誰もいない場所までくると、奇人は足を止め、仮面を外した。  白い頬《はお》に、涙が《なみだ》次々と伝いおちた。声なく、奇人は悔《くや》し涙を流した。 「柚梨……私たちは、約束したんだ。昔……ずっと昔−黎深とー」  十年の昔、悠舜が茶州に志願し、飛ばされることになったとき。  茶州に赴任《ふにん》することは、死を意味した時代。  でも、悠舜が死ぬはずがない。悠舜が帰ってくるのを待とうと。絶対生きて帰ってくる。  だから、悠舜が帰ってきたときのために、自分たちが出世しよう。  管飛翔《ひしょう》も、藍州州牧として赴《おもむ》いた妻文仲《きょうぶんちゅう》も。  それぞれがそれぞれの場所で、いつ悠舜が帰ってきても彼の居場所があるように。  そうしていつの目かまた、花の下で、誰一人欠けることなく、碁《ご》を打ち、盃《さかずき》をかわそう。  いつかきっとくるその日を待って。 『黎深、お前は兄のために国試を受けただけで、出世なんぞ興味ないというが、せめて悠舜が中央に戻《一む‥こ》ってくるまではちゃんとやれ。いいな。そのくらいお前にもできるだろう』あのとき、確かに黎深は領《うなず》いたのだ。  |面倒《めんどう》くさいが、悠舜のためならやってもいい、と。 『いいか、貴様に言われたからじゃないからな。悠舜のためだからな』  だから、あの適当な男が、寄|宰相《さいしょう》から打診《だしん》を受けたとき、吏部尚書なんぞを引き受けた。  国政にてんで無関心なあの男が、長い長い間、吏部尚書を務めた理由。  手を抜《ぬ》こうが何しょうが、御史台に目をつけられない程度にちゃんとやっていたのに。  悠舜がようやく帰ってきて、すべてはこれからという時になって。  奇人には、黎深の考えていることがまるでわからなかった。 「なぜ�……」 「……鳳珠……」  寮侍即は、綽牧が吏部侍郎に就任すると聞いたときのことを思いだした。  楊修がひょっこりと景侍即の許《■? と》を訪れ、深々と頭を下げたのだ。 『これから、同じ侍即として、締牧のことをお願いします。折々に、でされば気にかけてやってください。私はもう傍《そげ》でいちいちあれの面倒を見てやることはできません。吏部尚書は本当アホでまったくどうしようもないんで、アテにしないでください。……飛び抜けて若いですが、李絳攸は私がいちばん目をかけてきた官吏です。筆頭侍郎として、至らないところも多々あるかと存じますが、あれなら|充分《じゅうぶん》その大任を果たすことができると思っています』そこに、彼自身のことは微塵《ふじん》もなかった。  かつてあったはずの愛弟子《まなでし》に対する愛情と誇《ほこ》り。紅尚書に対する皮肉の裏の確かな敬意。  ……確かに、この半年、紅尚書の様子はおかしかった。硬化《こ.つ人り》した態度に、李侍郎も一歩ずつ退《ひ》いていった。むりやりにでも仕事をさせようとする意志が徐々《じよじょ》に欠けていったように思う。  そんな二人に、楊修が上司としての見切りをつけたのは、……本当は景侍郎にもわからないではなかった。  楊修の官吏としての誇り高さを、景侍即は知っている。彼ほいま残る数少ない本物の貴族だ。  その持てる権力は、持たざる者であるか弱い民草《たみくさ》のために使うべきであると思っている。  その彼にとって、持てる者の筆頭ともいうべき紅黎深が、あらゆる能力と権力を掌中《しようちゅう》にしながら、いたずらに弄《もてあモ》んだまま、すすんで誰《だれ》かのために使おうともせず、果ては仕事を放棄する様をみるのは−そして、副官である李侍即が何もできなかったという現実は、楊修にとって共に切って捨てるに足る充分な理由だったのだろう。  紅藍両家がその豊かな力と人材を全土に循環さ《じゅんかん》せることなく、自らの領地内と国政に対する武器としてしか使わないことに、楊修が内心どう思っていたか、景侍即は知っていた。  楊修の判断や行動が|間違《ま ちが》っていると、彼には言えなかった。  大権を預かる最高官の一人として、どう見ても間違っているのは楊修ではなかった。  鳳珠のほうがよくわかっているはずだった。けれど、認められないのだろう。  鳳珠が望んでいたの正、こんなことではなかった。悠舜が茶州から戻り、また三人がそろい、騒がしくて何気ない日常がつづくことを彼は信じていた。その日をずっと待っていた。  でも、もう無理だった。  ずれてしまった歯車の中で、すべてを手に入れるには遅《おそ》すぎた。  鳳珠の裸《たもと》から、何かがこぼれ落ちた。くしゃくしゃに丸められていたが、文《ふみ》のようだった。  ずっと|握《にぎ》りしめていたらしいそれを、景侍郎は拾った。  鳳珠は何も言わなかった。景侍郎は意を汲《く》み、丁寧《ていねい》に敏《しわ》を広げて、目を通した。  息を呑《の》んだ。どうして今日、鳳珠が黎深の許を|訪《おとず》れ、激昂《げつこう》して詰《つ》め寄ったのか、理解した。  貴家直紋《じきもん》�駕恵彩花《えんおうさいか》″の判がおされたそれは、黄一族にとって絶対服従を意味する命令。                                        ユー  逆らえば、一族から排《1�▼l▼》されることさえあるときく。  戸《ヽ》部《ヽ》尚《ヽ》書《ヽ》を《ヽ》辞《ヽ》し《ヽ》、ひ《ヽ》と《ヽ》ま《ヽ》ず《ヽ》黄《ヽ》州《ヽ》に《ヽ》帰《ヽ》還《ヽ》し《ヽ》静《ヽ》観《ヽ》せ《ヽ》よ《ヽ》というその書状を、鳳珠は丸めて捨てた。  ……鳳珠もまた、選んだのだ。  家を捨て、朝廷《ちょう′てい》に残り、最後まで悠舜のわずかな味方となることを。  そして悠舜を選ばなかった黎津との訣別《けつベつ》を。  楊修は、戸部の二人が出て行った|扉《とびら》を視線だけで振《ふ》り返った。 「……まったく、アホですねぇあなたは。どうしようもない。本当に私より年上ですか」  眼鏡《めがね》を押し上げながら、凝《こ》った首を回す。バキべキとすごい音が鳴った。  楊修は手にした害翰《しよかん》でうんざりしたように自分の肩《かた》を叩《たた》いた。 「つたく、あなたのおかげで私もこのところ肩こりがひどいですよ。|暇《ひま》なら操《も》んでください」 「ふん、何も期待しないんじゃなかったのか」 「ええ。言ってみただけですよ。嫌味《いやみ》くらいいわないとやってられませんよこの仕事量。私の肩を操む気があるなら、むしろ鄭尚書令の肩でも採みにいってほしいもんですねぇ」悠舜の名に、ぴくりと黎深の|眉《まゆ》が跳《は》ねる。楊修はまた溜息をついた。 「……だから、アホだっつーんですよ、あなたは」  楊修は殺風景な室《へや》を|大股《おおまた》で横切り、尚書机案《づくえ》に近寄った。 「ハンコ、借りますよ」  肩たたきにしていたのは、吏部尚書印が必要な重要書翰だったらしい。  凡帳面《さちょうめん》でうるさい縁故と違って、楊修は苦からそういうところは結構大雑把《おおぎつば》だった。  開けていた窓から、風が入ってくる。楊修の短くなった髪《かみ》がサラサラと音を立てた。  楊修は勝手知ったる顔で尚書印に朱泥《し紬でい》をつけながら、心地《ここら》よさそうに眼《め》を細めた。 「ああ……いい鳳ですね。いつのまにか、季節は秋になっていたんですねぇ。空が遠い」 「そうだな」 「そういえばあなたは、李《り》花《人り》と秋が、お兄ちゃんと同じくらい大好きでしたね」 「……なんでそんなことをお前が知ってる」 「嫌《いや》になるほど傍にいましたからね。あなたは私の好きなものなんて知らないでしょう」  黎深は扇を《おうぎ》差し出した。その上に、舞《ま》い込んできた紅《あか》い落葉がひとひら、ひらりとのった。 「枇杷《げわ》の実と、雪柳。《ゆきやなぎ》秋の鈴虫《すずむし》。降るような銀杏《いちょう》の葉。夏の虻《にじ》。私の琵琶《ぴわ》と、線紋」  楊修は目を丸くした。|驚《おどろ》いた。 「……なんでそんなこと知ってるんです」 「嫌になるほど傍にいたからな」 「思えばそうだったかもしれません」  楊修は天を仰《あお》いだ。ふと笑う。楊修の微笑《げしト事う》はいつもどこか意地悪そうで、けれど本当にそう《、、》かどうか判別できる者は稀《まll》だった。その点も黎深と似ているとよくいわれたものだった。 「|冗談《じょうだん》じゃないですよホントにねぇ。よりによってあなたと好きなものまでわかりあっちゃうなんて、どんなしょっぱい関係ですか。いやすぎる」 「お前が先にいうな。私の台詞《せり・舟》だ」上下関係でいえば、緯俄より長い長い時を傍で過ごした。そのほとんどを喧嘩《け人か》に費《つい》やして。  間違いなく、楊修のY人生で最低最悪の上司は紅黎深に決まっている。  楊修はボン、と判子を押した。 「似合わない|後悔《こうかい》なんてしないでくださいよ。うっかりぶっ殺したくなりますから」 「ばかめ。私の辞書に後悔の文字などないわ」 「あーなんかどこかから空耳が聞こえますねぇ。|嘘《うそ》ばっか」  あっさり鼻で笑い飛ばした楊修に、黎深はむかっ腹を立てた。 「あなたは確かに天才ですよ。ただし、後悔のね。それだけのY才と先見の明がありながら、いつも後悔ばかりしている。神様もシャレがきいてますよ。その天つ才で手に入らないものは何もないのに、富も権力も地位も|家柄《いえがら》も、生まれながら掌上にあって手に入れる必要なんかない血そしてあなたがいちばん欲しいものは、いつも才能では手に入らない場所にある」  楊修は黎深を見ることなく、ボン、と別の書翰に判を押した。                                          ふつう 「あなたが一番欲しかったものは、普《_》通の人が何気なくしていることだ。愛する誰かを喜ばせること。幸せにする方法。いちばん望むことをいちばんいい形で叶《かな》えてあげるにはどうしたらいいか。人の心をはかること。ーでもあなたは、いくら考えても、いまだにそれだけは全然わからないんだ。わかったときはいつも手|遅《おく》れだ。だから、こんなふうに後手に回って、私ごときに追いつめられて、たった一つしか大事なものを守れないで終わるんですよ」楊修の言葉に皮肉は少しもなかった。 「……あなたは本当にわからなかっただけでしょう。いつも本気で、あなたが好きになったわずかな特別な人のために|一生《いっしょう》懸命《けんめい》なだけだったのに。でも誰もが天才のおかしな行動で片づけた。なぜなら誰もが当然のようにできることを、『あなたがわからないはずがない』から」天つ才。でも楊修は、いつか副官になるときのためにと、黎深を他人より冷静に、注意深く見てきた。ある意味、家族や友人が知ろうとしない心の奥深くまで。  もろもろの観察結果をしみじみ思い返した楊修は、眼鏡を白く光らせ、せせら笑った。 「まあでも、言葉にすれば悲劇っぽくても、現実はどこまでもトンと喜劇で、それだけが救いでしたよねぇ。あんまり|真面目《まじめ》にアホなことばかりしてるんで、見ていてもうバカウケ」 「う、うるさいわ! くそ−|黙《だま》れ。だからお前は嫌《きら》いなんだ!」近くにいられると、知られたくないところまで理解する。だからいつも追っ払《ばら》ったのに。 「おや、|珍《めずら》しく意見があいましたね。私もあなたが大嫌いでしたよ」  風が吹《;》いて、黎深の扇《おうぎ》上にあった紅葉《もあ∴じ》が、ひらりと飛んだ。  楊修は顔を上げ、飛んできた鮮《あぎ》やかな紅《くれない》をつかんだ。まるで黎深に対するように|微笑《ほほえ》む。 「……あなたの望みが最高権力とかだったら、誰にもつけいる隙などありはしなかったのに」|唯一《ゆいいつ》、情にだけはありえないほど鈍才《ビ人さい》で、でも黎探の行動はすべてそれゆえだった。  愛する兄のために国試を受け、愛する友人たちのために吏部尚書となり、養い子のために仕事をやめた。なんでもいい、それ以外のために仕事をしたら、稀代《さだい》の大官になりえたろう。でも、違った。彼の根本にいつもあったのは、よりにもよっていちばん苦手としたものだった。  だからうまく先が読めずに、後手に回った。楊修にさえ、追い落とされるほどに。 「最高権力? 馬鹿馬鹿《ばかばか》しい。そうあってほしかったのか? L 「ええ�いえ、やっぱりそれはそれで超《ちよ、つ》むかついてたと思いますよ、ええ。人生ナメてんじゃねぇって、私の才能と人生すべて使って全力でつぶしにかかったんじゃないですかね」楊修は紅《くllなし、》に染まった葉を、つぶさずに大事そう・にそっと机案の上に置いた。 「私はね、私がほしいものをすべて持っているのに使わない、倣慢《ごうま人》で身勝手で自分のことしか考えないお子様な天才が大嫌いでしたけど、たった一つだけ、他人にとっては弱味《よわみ》にもならない弱味を隠《カノ、》そうともしないでダダ漏《も》れしてる紅《ヽ》黎《ヽ》深《ヽ》は−多分そんなに嫌いではなかった」すべての書翰に押捺《おうなつ》を終えると、ゆっくりと尚書印を置く。  何を考えているのかなら、おそらくお互《たが》い一番の理解者だ。今も楊修は、黎深がどうしてこんなことをしているのか、ちゃんとわかっている。  だからこそ、楊修は黎深に見切りをつけた。もう黎深が変わらないと気づいたから。  そして理解はしても、認めることはできなかった。  この室を出れば、楊修がすることは一つしかない。 「私はね、|怒《おこ》ってるんですよ。私が李絳攸をあなたの副官に推《お》したのは、こんな馬鹿馬鹿しい結末を見るためではなかった。あの子はあれほどの才がありながら、いまだに何が起こっているのかさえわかろうとしない。あなたのことしか考えていない。……あの子を吏部侍即に推挙したのは、私の唯一の失策でした。私は……ずっと待っていたのですけれどね」秋の風が吹き込み、楊修の短い髪を巻き上げる。 「……せめて、あなたのー掌《て——再ハ∵∴》に残っているたった一つの大事なものくらい、まともに守ってみせ                                                                                                               r ー,lてくださいよ。でないと本当、あなたのしていることは誰《ょ・, ょー》にも埋解されないで終わっちゃいますよ。まったく親子ともども、最後まで|面倒《めんどう》をかけてくれる」そうして、楊修は尚書室をあとにした。  回廊《かいろう》に出ると、ふと足を止め、遠く苦《あお》く広がる空を見上げる。どこかで烏の聾《こえ》がした。 『枇杷の実と、雪柳。秋の鈴虫。降るような銀杏の葉。夏の虻。私の琵琶と、緯倣』  ……黎深が楊修の好きなものを知っていたことだけは、予想外だった。黎深が変わるはずがないと、どこかで思っていたのに。もしかして他《はか》にも見誤っていたことがあったかもしれない。  それでも、愛する者のためにしかその力を使わない紅黎深は、決して楊修の主《あるじ》にはなりえない。それだけは確かだったから、楊修はやはり何も後悔はしなかった。       ・翰・翁・  秀麗は一刻待って清雅を叩き起こしたあと、回廊を全力疾走した。 「父様!」  府庫にいた邵可は、飛びこんできた娘に顔を上げた。……そろそろくるかと思っていた。 「……父様、吏部尚書が、父様のすぐ下の弟で、私の叔父《おじ》様って本当?」 「本当だよ」 「……紅家当主で、経倣様がそのかたの養子っていうのも?」 「ああ。君とは義理の|従兄妹《いとこ》になる」  どうして今まで教えてくれなかったの、といおうとして、飲みこんだ。それは秀鹿の個人的な感情にすぎない。 「……どんなひと?」 「玖娘と同じように、大切な弟だよ」  身内としての答えが返ってきて、秀麗はそれ以上何も言えなくなった。吏部尚書としてどうなのかは、父に|訊《き》くことではなく、自分で調べるべきことだった。  何より御史台の仕事は機密が多い。経倣様や叔父がどんな状況にあるのか、父にさえ漏《も》らすことはできない。それに父を巻き込むことはできることなら最後まで避《さ》けたかった。 「……わかった。仕事に、戻るわ」  少ししょんぼりと帰る娘の背に、邵可は深く�|溜息《ためいき》をついた。何が起こっているかわかっているのに、今の邵可にできることは何もなかった。秀麗に対しても、王に対しても。そのことがひどくこたえた。けれど最初に霄太師に府庫の地位を望んだのは、彼自身だった。  御史室に戻《もぴこ》ると、燕青が書物や調書に埋《う》もれていた。 「お帰り、姫《!?め》さん」  燕青は蘇芳と違って、秀寮に何をすればいいか訊《ヽ)》いたりはしない。勝手に考えて勝手に動く。  秀麗は燕青の手にしている見覚えのある調書に目を丸くした。 「……私がこの半年でやった仕事の調書の写し?」 「そ。どんなことやってたのか知らねーし、大雑把《おおぎつぱ》に仕事の仕方もつかめるかと思ってさ」 「その書物はどっからもってきたの。ここにあったやつじゃないわよね?」 「葵長官とこ行って、手っとり早く立派な御史裏行《みな∴∵い》たるに必要な書物貸してくれうつったら山ほど渡《わた》された。そうそう、細々とした仕事が積んであったけど、とりあえず俺も目を通して机案《つくえ》にわけて置いといたぜ。わけかたはカソ。別名、テキトー」  秀麗は腰《ー、し》に両手を当てた。 「立派な輔佐《はき》っぷりね。自分が情けなくなるわ」 「俺は別に心配してなかったぜ。姫さん、李侍郎さんの牢《ろう》でぼへうと何もしないでただ見つめ合って一日過ごせる性格じゃねーだろ。夕方までに戻らなかったら呼びにいくかとは思ってたけど、ちゃんと帰ってきたじゃん」 「じゃ、これも今すぐ詰《つ》めこんで。燕青がわけてくれた仕事を私が見てる間に読んでね」秀麗はさっき清雅のところから拝借してきた調書を燕青に渡すと、席に着いた。  そして、燕青がいくつかにわけてくれた仕事に目を通す。このところバクバクしていたので.、だいぶたまってしまっている。 (あー、牢城の監察《かんきつ▼》も行かないと。未決囚《みけつしゅう》の訴状《そじょう》の洗い直しも山ほどたまってるだろうし、裁判も滞《とどこお》ってるわ。衛生|環境《かんきょう》も見ないと美し、病牢に行って病気の人も見舞《みま》って。ぎゃー、いろんな嘆願《たんがん》やら直訴《じきそ》やらタレコ・、、やら怪文書《かいぷんしょ》もめちゃめちゃたまってる。えーと、こっちは夏の物価の変動衷……あ、お塩の値段が戻ってる。こっちは私の仕事じゃなくて�)次々と見ていきながら、秀麗はひそかにうなった。 (さすが燕青……)  カソでわけたといったが、勘《かん》どころか、秀厨が一枚一枚見て、最後にどうにかこうにか仕分けするその最後の形がほとんどできている。  カソというか、十年間州牧をやって培《つちか》った能力と実力に|間違《ま ちが》いなかった。茶州府はかなり官  更が少なかったこともあり、州牧の燕青もただハンコ押してるだけではまったく追っつかず、あちこちに駆《か》り出された話は知っている。燕青にほぼ州政全般に亘《ぜんばんわた》って口を出すことができる能力があるのを、秀麗もこの目で見ている。もちろん、州政には御史と似た部署もある。あっというまにコツをつかんだらしい。  わかってはいたが、秀脛なんか比較《けかく》にならない。今すぐ御史に任命されても|充分《じゅうぶん》やっていけるはずだった。自分の裏行などさせているのが本当に申し訳ないほどだ。  T……うう、でもすごく助かるわ、燕青。ありがとー)  秀灘はしばらく黙々《もくもく》と仕事に集中した。なんと燕青の仕分けのお陰《かげ》で、いつもの三分の一という|驚異《きょうい》的な速さでメドをつけることができた。 「よしっ終わりっと」 「ごくろーさん。ほい、お茶」  トソ、とお茶が出てきた。秀麗は|呆気《あっけ 》にとられた。 「燕青……あなた本当に燕青!?なんでこんなに気が利《き》くの! 実は偽者《にせもの》!?」 「ふっふ。本物だからこそ、チョ——気が利くいい男に決まってんじゃねtか」 「……あー……やっぱ本物だわ」 「なんでだ。ああこれ、読んだぜ」                                                                                                ,い  燕青が茶をすすりながら、さっき秀麗に渡された調書を振《r》った。 「吏部尚書と李侍郎さんが養父子関係だってフ」 「そう。ついでに私と吏部尚書が叔父と姪《めい》で、経紋様とほいとこだったみたいよ」 「そりゃこの件には関係ないだろ。大事なのは、吏部尚書と李侍郎の関係」 「……う、はい。その通りです」  なんで誰もいってくれなかったのよ、という不満を見事に見抜《みぬ》かれ、先に切り捨てられた。  確かに、このさい関係ない。  仕事をしなくなったという吏部尚書。ずっと輔佐をしてきた締牧。 「……拾ってくれたお父様……ね」  秀麗は緑他のことを、本当に何も知らなかった。でも覚えていることがある。 「私ね、どうして官吏になったんですかって、経倣様に訊いたことがあるの」  燕青がふと顔を上げた。 「そうしたら、『ある人のそばにいて、その助けになりたかった。与《あた》えてくれたたくさんのものの、恩返しを少しでもしたかった。それだけだ』って言ったの。それ、……きっと吏部尚書のことだったのね」 「立派な理由だな。俺が州牧引き受けたのと同じ歳《とし》に官吏になったんだっけ? 俺なんかマジなーんにも考えてなかったからなー」                                                                                                   わカッカッカと笑いながら、鼻の頭に筆をのせてゆらゆら揺《山�》らして遊んでいる。このテキトーさが緯倣様にもあったら、きっと鬱々《う? つつ》と沈《しず》んで考えこんだりしなかったろうに−。 「俺なんて『とりあえず茶州茶州茶州、茶州なんとかしよーぜイエーそれ以外はとりあえずどーでもいーから色々ぶっこみガンガン魂飛ばしてこーぜ! 所信表明《シヨ、ン、′ヒヨウメイ》はそんなホニヤララな感じで後は任した悠舜!』だったぜ。熱いなー十六歳のオ・レ!」本当に何も考えてなかったんだ�秀麗は戟懐《せんn′つ》した。 「……あらゆるものを丸投げされた悠舜様が本当に魂飛ばしてる様子が目に浮《う》かぶわ……」 「おお。なんかみんないっぱい飛ばしてた。俺の熱意に打たれすぎてすっこ抜《血》けたんだな」 「…………それ多分別なものに打たれてすっこ抜けたんだと思うわ」  ホニヤララな感じ以外ナニモノでもない所信表明に。  燕青はトン、と調書を示した。 「でもさ、これなt。いくら助けになりたかったっつっても、これはダメだろ。セーガ君に目ぇつけられるわけだぜ。いくらなんでもこれはやはいだろ。吏部尚書が仕事しないからって、侍即の権限じゃ無理な決裁を李侍郎が全部やってたっての」以前も何かと仕事が滞りがちだったようだが、吏部尚書の最終決裁が必要な重要な仕事には、必ず吏部尚書自身を引っ張り出し、ハンコを押させていた。  が、今年の初夏あたりから、それさえ絳攸が肩代《かたが》わりするようになっていた。  そうしなくては吏部が回らないと思ったのかもしれないけれど。 「こんなことしてても長くもつはずがない、何の解決にもなってねうて李侍郎さんにわからないはずがないだろ。今までの経歴から見ても、ちゃんとソ《ヽ》レ《ヽ》やって出世してきてるのにな」           ちん一Uく秀麗は沈黙した。 「……やっぱり、とりあえず一度会いにいくしかなさそうね。もう遅《おそ》いから明日ね」 「吏部尚書にか?」 「緯倣様と一番近い人だし、コトの元凶じ《げんきょう》ゃない。経倣様が拘束《こうそノ、》されても、やっぱりお父様は仕事をするわけでもかばうわけでもなく、一度も面会にこない理由もききたいわね」 「うーん……まあなぁ……」|妙《みょう》に燕青の歯切れが悪い。 「なに? 燕青。何が気になるの。いってちょうだい」 「……ただのカソだけどさ」  鼻で揺らしていた筆をとる。 「これ、気をつけないとやばい気がする」 「やばい〜そりゃやばいわよ。どこもかしこも何もかもやほいでしょコレ」 「……ザク切りだすな。李侍郎さんのために、まだ|大丈夫《だいじょうぶ》ヨくらい言っとこーぜ……。じゃなくて、人間関係がさ、姫《けめ》さんに近すぎるってこと」秀麗の頭に、何かがひっかかった。……人間関係が……近すぎる〜 「感情移入しやすい相手が多いだろ。しかも|親戚《しんせき》。これ、フツー姫さんにふらないよな……」 「……私が自分から無理にいって引き受けたのよ」燕青が|渋《しぶ》い顔でくるくると筆を回す。墨《すみ》が乾《かわ》いているらしく、筆先が固まっている。 「わかってる。たださ、それでも俺なら姫さんにゃふらなかったと思うぜ」  ふと、秀脛は顔を上げた。  葵皇毅が何かするときは、必ず二重三重の思惑《おもわく》があった。  秀麗はずっと感じていたことを言葉にした。あやふやで、なんの確証もないけれど。 「……あのね、燕青、直接関係ないかもしれないけれど、……何かがおかしいと思うの」 「うん?」 「この間が藍将軍で、今度は締倣様。立て続けに、王の側近が二人とも。……何か起こっている気がするの。目先のことじゃなくて、もっと大きな。へソな言い方だけど……たとえば今回経紋様を助けても、元《ヽ》に《ヽ》戻《ヽ》ら《ヽ》な《ヽ》い《ヽ》気がするの」言葉にしたら、それは多分真実なのだと、不意に思った。       ・翁・歯・  その晩も、劉輝は仕事を全部終えると、絳攸の牢《ろう》をそっと|訪《おとず》れた。 「リオウ、絳攸の様子はどうだ?」  リオウの額に、|珍《めずら》しく|汗《あせ》が玉を結んでいた。乱暴に袖《そで》でぬぐう。 「……悪い。まだだ。だいぶ、かかるかもしれない」  ずっと見ていた楸瑛は、|眉《まゆ》を攣《ひそ》めた。 「うーさまから、なるべく休憩を挟《きゅうけいはさ》むことって言われていただろう。リオウくん、ほとんど休憩をとってないじやないか。いい加減、休みなさい。ほら、水飲んで」  鰍喋から差し出された竹筒《たけづつ》を口に含《ふく》むと、リオウはまるで水の飲みかたを思いだしたようにごくごくと一気に飲み干した。  劉輝も、くる|途中《とちゅう》に秀麗から渡《わた》された包みを差し出した。 「秀鹿が夜食を渡してくれた。休んで、食べよう、リオウ」 「…………悪い」 「なぜ謝るのだ。余が礼をいいこそすれ、謝ることなどなにもないだろう」  リオウは静蘭を思いだした。……あの男は、そうは思っていないようだが。 (あの男のほうが、正しいけどな……)  リオウがあぐらをかくと、劉輝は何かを思いだしたように笑った。 「前も、リオウと秀庫と三人で、秀麗のつくってくれたご飯を食べたな」 「……そうだな」  でてきた重箱を、リオウが開けてテキバキ広げる。中には、冷めても味が落ちないようなものばかりが詰《つ》められていた。あの女らしいと苦労育ちのリオウは思った。  箸《はし》をわけていたリオウは、ふと劉輝と楸瑛を見た。ちょうどいい機会かもしれない。 「……そういえば、九彩江でのことだが、訊《き》きたいことがある」  劉輝と楸瑛は顔を見合わせた。 「何だ?」 「九彩江で宝鏡山のご神体をぶっ壊《こわ》して帰ってきたって報告があがってきたんだが、本当か」劉輝は目を点にした。予想外の話題だった。  ……ご神体?  逆にすっかり忘れていた楸瑛ほしまった、と口許《くちもレー》を押さえた。  劉輝は身に覚えがなかった。高山病でずっと寝《ね》っぱなしで、瑠花に|馬鹿《ばか》にされ、気づけば舟《ふね》で流され、隣《となり》山の竜眠山《り紬うみんぎん》藍家別荘《ペつそう》で起きたらいろいろ終わっていただけだったのだ。  劉輝は慌《あわ》てて、バツが悪そうに鼻の頭をかいていた楸瑛を小声で問いつめた。 (しゅ、楸瑛!?聞いてないぞ。そんなことがあったのか!?)  T……みたいです。でも誰《だll》が壊したか、いまだにわからないんですよね……)  誰かが宝鏡を壊したのは確かだが、いったい誰がなにゆえに壊したのかもナゾである。  いちばんあやしいのは『燕青がうっかり壊しちゃった』という説だが、本人は全面否定だ。 「その神鏡ほ、先々代碧家当主の遺作で、史上最高の傑作《け∴ノさ・、》で名高かったんだ。二十年にいっぺん奉納《はうのう》し直すのが契約《けいや′1》だが、あれなら百年はもつっていわれてた名品中の名品で、期限がすぎたら『碧宝』指定にして碧家に返納する約束だった」 「………………………………」劉輝と撒瑛ほ全身から冷や汗を流した。まったく知らなかった。  別に自分が壊したわけではないが、多分、いや|間違《ま ちが》いなく、劉輝が宝鏡山に出向いたせいで結果的に壊れることになった。行かなかったら、ちゃんと今も安置してあったに違《ちが》いない。 「……す、すまぬ……わ、悪かった」 「お前のせいじゃない。そうか、壊れたのは本当か……奉納し直さなくちゃならないか……」  リオウはいつも淡々《たんたん》としているが、劉輝には沈《しず》んでいるように見えた。 「……その……壊れた宝鏡はもしや仙洞省の管轄《かんかつ》だったのか? そなたの責任になるのか?」 「繚家と仙洞省、あと碧家の管轄だが……なんでそんなことを訊く?」 「……沈んでるように見える。|叱責《しっせき》を受けたりするのか?」リオウは|驚《おどろ》いた。少し迷い、別に言わなくてもいい話をすることにした。 「……いや。ただ有名どころのご神体はたいがい碧一門がつくるが、宝鏡山のあのご神体は中でもいわくつきの別格でな。何せつくりあげた直後、碧家の作り手は必ず死ぬ。例外はない」 「な、なに!?なんだそれは!」 「詳《くわ》しい製法は碧家にしかわからない。けど文字通り精魂《せいこん》こめてつくられる。だから二十年にいっぺん、碧家は必ず当代一の芸術家を死なす。不思議なことに、碧家は嫌《いや》だと言った例《ため》Lはない。前任者がつくったその宝鏡を見ると、誰かが取り憑《つ》かれる。実際、その宝鏡をつくる者は、芸術の守護仙・碧仙《へさせん》と会えると言われてる」リオウも一度その宝鏡lを見たことがある。確かに美しい鏡だった。けれど、リオウにとってはそれだけで、別に命を賭《か》けたいとは思わない。だが碧家にとっては違《ちが》うのだろう。  けれど、それに異を唱えた碧一族がいた。それが先日壊れた神鏡をつくった先々代。 「……二十年に一度は短すぎる。先々代はそういったらしい」 『さして生きてもいないのに、どうしてたかが鏡のlために若い命を散らしてもなどといえよう。  人の身で及《およ》ばぬものを、つくろうなどとおこがましい』  楸瑛は首を捻った。 「……碧家の先々代当、芋…‥? どうしてだろう。覚えがないな……」 「だろうな。ものすごい自堕落《じだ∴.ヽ》で洒好きな放蕩《はうとう》モソで一1——壺あこれは薯一門には別に珍しくないがーありえないくらい何の芸才もないことで超《ら上1リ》有名だったらしいからな。当主なんて名ばかりで、宝鏡をつくった功績に鑑《小人が》みて死後先々代として系譜《〓い・ル》に載《Jj》っただけで、生前に就任したわけでもない。ついでに|生涯《しょうがい》で残した『作品帖は、宝鏡山のご神体のたったひとつきりだ」 「? 何の芸才もなくてなんでそんなすごい鏡をつくれたんだっ・」 「それが今も碧家で語りぐさになってる有名な七不思議のひとつだ。なぜ先々代があれをつくれたのか、いまだに誰もわからない。本当に碧仙と会ったのではないかと言われてる。それほどうだか知らないが、俺は宝鏡をつくる前にそいつが残した言葉が気に入ってたんだ」なんの能もなくて昔から一族の笑いもの、いつもバカにされていたというその先々代が、……なんとなく自分と重なって、リオウほ少し、その先々代を調べたことがあった。 『二十年に一度では短すぎる。 「契約」だから仕方がないが、せめて自分の孫の代くらいまではなんとかしたいものだよね。鏡に取り憑かれて死ぬなんて馬鹿げてる。私でいいだろう』今まで何一つろくなものlをつくったことがなく、そもそもなんの創作意欲もなかったという彼が、何の気まぐれで自ら宝鏡をつくろうと思い立ったのかも、いまだに謎《なぞ》のまま。  けれど、ある日突然《とつぜ人》ふらりとどこかへ消えた彼は、やはりまたある日どこかから帰ってきて、宝鏡を差し出したという。その間、彼がどこで何をし、どうやってその宝鏡をつくっていたのか、|一切《いっさい》語らないまま、死んだ。  最初で最後、歴代最高|傑作《けっさく》と碧一門すべてが絶句した、その鐙一枚だけを遺《のこ》して。  そしてそれは、とても特別な鏡となった。 「……いったろう。普通なら二十年で奉納し直すが、そ《ヽ》れ《ヽ》は《ヽ》百《ヽ》年《ヽ》も《ヽ》つ《ヽ》は《ヽ》ず《ヽ》だ《ヽ》っ《ヽ》た《ヽ》−と」  当時先々代が何歳だったかはわからない。ご神体の作り手は鬼籍《させさ》ならぬ『仙籍』に入ったと見なされ、人ではないものとして生没《せし暮ぼり》年を抹消《まりしょう》されるからだ。……でもリオウは何となく、もしかしたら相当若かったのではないかと、数少ない記録を読んでいて思ったものだ。  芸のためでなく、ただ子孫を生かすためにその宝鏡をつくって死んだ、変わり者の当主。 「……でも、壊れた。壊れたら、誰《ヽ》か《ヽ》が《ヽ》っ《ヽ》く《ヽ》り《ヽ》な《ヽ》お《ヽ》さ《ヽ》な《ヽ》き《ヽ》ゃ《ヽ》な《ヽ》ら《ヽ》な《ヽ》い《ヽ》」  劉輝も轍域も青ざめた。まさか�。  あの宝鏡をつくった者は、直後に必ず死ぬと、リオウは言った。 「……碧家は、もう次の作り手を決めた。正確に言えば、志願者が出た。碧幽谷《拍う二く》−�碧歌梨だ」 「歌梨殿が!?」劉輝は、歌梨が新貨幣《かへい》の意匠《いしょう》を確定させて朝廷《ちょうてい》を出たという報告を思いだした。では−。  リオウは目を閉じた。劉輝がいったとおり、自分が沈んでいたのだと気づいた。  宝鏡制作を引き受けた作り手は、必ず死ぬ。例外はない。……例外はないのだ。 「……あの女、確か旦那《だんな》と……小さい子供がいたろ」 「なら、そんなものつくらなければいい!」 「……宝鏡が割れた後、何があった。藍龍蓮がいなかったら、どうなってたと思ってる」  激しい地震《じしん》。まるで龍が《lりゆう》おきあがるかのような。  だから碧家は二十年に一度命を賭けて宝鏡をつくり、社にて藍家と標家が守ってきた。  それが蒼玄王《そうげんおう》と交《わ》わした古《いにしえ》の『契約�リオウは青ざめる劉輝を見つめた。……この男はいつも、他の誰かのためにこんな顔をする。  それは、紅秀麗を思い出させた。 「……お前のせいじやない。標家《うち》のせいだ。……宝鏡山で伯母上《おぼうえ》に……繚瑠花に会ったろ」  劉輝はほじかれたように顔を上げた。 「わかってる。鏡を壊《こわ》さなきゃ——ー」  間違いなく、紅秀麗は伯母上によってさらわれていたはずだった。  だから、誰かが鏡を壊したのだろう。紅秀魔を守りたかった誰かが。  それは責められない。そもそもあの杜のご神体を守る役目は、藍家と繚家にある。どんな理由があれ、守れなかったのは繚家の責任だ。他の誰かに責任転嫁《てんか》することはできない。  そうして新たなご神体を碧家に依頼《い∴∵い》しなくてほならなくなった。それを引き受けた碧歌梨は、今までの制作者と同じようにつくりあげたあと、死ぬのだろう。  城を出る前、リオウの許《もと》を訪れた碧歌梨は、怒涛《どとう》のように文句を言いまくったが、最後まで 「つくらない」とほ言わなかった。 『碧家の 「仕事」だから引き受けたんですのよ。王が王たる義務を果たすように、碧家は碧家の義務を果たしましょう。ご神体がぶっ壊されたらつくり直すのもまた古の約定。仕方ありませんわ。それが彩八家たる者の役目。でも、繚家もしっかり繚家の義務を果たしなさいっ』  彩八家の役目。あらゆる権力を許されるのは、引きかえに課せられた古の契約《けいやく》を守るため。  でも、いますぐ碧歌梨が死ぬことはなかった。まだ時間があったのだ。  碧家の先々代が自分の命と引き替えにして、与《あた》えてくれたはずの猶予《ゆうぶ》が、まだ。  ……リオウほ奥歯をかみしめた。 『繚家もしっかり繚家の義務を果たしなさい』  当主である父は、まったく自らの仕事にやる気がない。伯母の瑠花は�。  ……李絳攸の姿を見れば、あれがあの人の現実だ。  長い長い間、父に執着《しゅうちやく》して生きすぎたのかもしれない。昔は違《ちが》ったらしいが、今は自分のたった一つの望みを叶《かな》えるためだけに生きるようになってしまった。宝鏡が壊れ、碧歌梨が死ぬのだと言っても、それが? と言ってのけるだろう。  紅秀麗に会《お》うてみたかったから、あの宝鏡を使っただけじゃ、と。  ……もう標家には誰《だ一l》も、 「標家の約定」を最優先に守ろうとする者はいない。標家たる斡悼《きょうじ》  をもち、課せられた義務を果たそうとする者がいない。 『仙洞令君を引き受けた以上、あなたがこの朝廷《ちょうてい》における繚家の名代。何も知らなかったではすまされませんの。繚一族たる義務と、仙洞令君としての責務を自覚なさい。その名と官位に酔じない行動をおとりなさい! さ乳榔会議に座を連ねるその官位と立場の重みを承知なさい。  自分の頭で考えて判断し、そのすべての責任を自分に負う|覚悟《かくご 》をもって行動なさい!』  ……考えもしなかったのだ。  あの閉《し−》ざされた一族を出れば、異能があろうがなかろうがそんなことはどうでもよく、自分は繚家の人間以外の何者でもないと思われていることなど。だから碧歌梨も、羽羽でも誰でもなく、まっすぐリオウに怒鳴《ごな》り込んできた。  自分がこの女を死なせるのだとー理解した。  それが、無関心であったことの代償。《だいLトトう》繚家の代償だ。 「−1−リオウ」  リオウはふっと顔を上げた。王はひどく悲しそうな顔をしていた。 「余は……何も知らなかった。宝鏡山の鏡を、二十年に一度、碧家がつくっていることも。つくった直後……その作り手が死んできたことも」 「……お前のせいじゃない。藍家も知らなかったはずだ。藍家は九彩江に点在する鎮守《ちんじ砂》の社を守り、それぞれに奉納されているご神体を守る。それが役目だ。別にそのご神体がどうやってつくられているかまでは知る必要もない。違《ちが》うか?」  劉輝はそうは思えなかった。少なくとも知っていたら、神鏡を壊さないように気をつけることくらいはできたはずだった。 「知らなくてもいいから伝わらなかっただけだ。知ったとしても誰かが肩代《かたが》わりできるものじゃない。それぞれがそれぞれの役目をまっとうしていればそれですむ話なんだ」劉輝にはあまりにも各家が分断されすぎている気がした。互《たが》いに知らないことが多すぎる。  細切れのように情報があとからバラバラに出てきて、いつまでもさっぱり全体がわからない。  ……それは、朝廷においても、同じような気がした。 (緯倣なら)  どう思っただろう。どんな風に考え、どんな結論を出したのだろう。  なんでもいいから、話がしたかった。怒鳴られてもいい、何をいわれてもいい。いや、本当は話なんかしなくたっていい。ただ『経倣』に会いたかった。それだけでいい。  リオウは王を見て、最後に水を飲んで立ち上がった。 「……つづきをする」  碧歌梨の言葉が、リオウの心に波紋《は■りん》を残した。  伯母が李絳攸に何をしたかーそれが初めてではないと知ったときも、小波《さぎなみ》がたった。  よりにもよって王を媒体《ぼいたい》に、腹心の李絳攸を落とすとは。  だからこそ、リオウは初めて伯母に逆らい、自分の意思で動いた。  間違っていると、思った。  李絳攸が官吏として何か非を犯《おか》したなら、それは朝廷で裁くべきことだ。こんなふうに、勝手に心をいじり、罷免《ひめん》にするなど、許されていいはずがない。  ……そんな、人を嘲笑《あぎわら》うような方法で、王と紅秀麗が必死で守ろうとしている者を、踏《lh》みつぶしていいはずがない。王にこんな顔をさせる理由になどならない。  何よりも、標家の力は、こんな風に使うためにあるのではないと思ったから。  誰にも拠《よ》らずに決断するというのは、……こんなにも不安なのだと、初めて知る。  自分でこれなら、王はその行動一つにどれほど不安なのだろうと、ふとリオウは考えた。       ・巻・翁・  バクバタと、二羽《わ》の文鳥が飛び交《か》う。  絳攸はせっせとつるはしをうっていた。ものすごい重労働だ。 「なぜこんなことを俺が!」 「……自分のことは自分でやれ。つるはし、だしてやったろ。落石の量も抑《おき》えた」  リオウ文鳥が、ボソツと呟き返した。癒し系うーさまは最初以来こなくなった。ぶち切れそうになったのは、うーさまのかわりに白文鳥の姿でしゃべりだしたのがー。 「ガンバレーガンバレー、経・倣ッ! なんか今大変だって〜? 穴掘《あなほ》りってどんな感じ?」愛らしい白文烏の姿をしていなかったら、きゅっと首を捻っていたほどの殺意を覚えた。 「うるさい楸瑛!!歌うな! しゃべるな! 応援《おうえ人》するな! |黙《だま》って飛んでろっ」  しかも|厄介《やっかい》なことに、リオウとは会話ができるのに、楸瑛のほうは一方通行でしゃべりまくっているだけなのだ。鬱憤《うつぷ人》がたまるといったらない。つるはしを打って打って打ちまくる。 「絶っっっっ対出てって、殴《なぐ》る。ぶん殴ってポコボコにしてやる」  そのとき現実では、リオウが楸瑛に 「……かなりやる気になってるな。その調子でいろいろダダ漏《も》れしてくれ」などと逆にあおっていることなど露《つゆ》も知らない締牧である。 「君とぼくの思い出は〜甘酸《あまず》っぱくほろ苦く〜」 「初めての出会いは絶賛迷子中の君〜」 「いろいろあって女の子嫌《ぎら》いになっちやって、まあ大変〜」などと聞きたくもない歌を歌っていた(なぜ歌。しかも妙にうまいのが頭にくる)楸瑛文鳥は、歌うのをやめた。 「……ねえ、経倣、主上がね、君のことをずっと待ってるよ」  ふと、絳攸は手を止めた。 「�花菖蒲《はなしようぷ》″もらってから……楽しかったね、緯倣」  ……楸瑛の口から、楽しかったという言葉を聞こうとは思わなかった。  楸瑛文鳥が、心を読んだように笑った。|溜息《ためいき》をつくように|囁《ささや》く。 「楽しかった。私は、どんなにバカなことをしたと思っても、間違ったことをしたなって落ちこんでも、今がどうでも。�花菖蒲″をもらう前に戻《もゾし》りたいとは、思わない」……�花菖蒲″をもらう前に? 楸瑛と王との三人で過ごしたこの二年。 「秀麗殿よりもたくさんの時間を三人で過ごしたね、経倣。秀麿殿と静蘭が茶州に行っている間は、毎日のように三人で遅くまで過ごして。お忍《しの》びで城下に遊びにいったり、月見酒を交わしたり、気づけば酔《よ》っぱらって三人|一緒《いっしょ》に朝日を拝んだり」まるで手に取るように緯仮も思いだせる。バカなことばかりしていた。けれどそんなバカなことが|普通《ふ つう》にできる相手は、……思えば楸瑛と王だけだった。  私はね、と、楸瑛が苦笑いした。 「……本当をいうと、幼馴染《おさななじみ》以外、そんなに長い間、他人と一緒にいるのは、初めてだった。浅く広く、それでいいと思ってた。君とだって、宥大師に一緒くたに傍《そげ》付きにされるまでは、一緒にいるのが当然……なんて仲じゃなかったしね」確かに、その通りだった。むりやり二人を連れ歩くのは、いつも王だった。  気づけば三人でいるのが当然のようになっていた。 「不思議だね。私は、あんなに他人とくつろいで笑った日々は、他《ほか》に知らない」 「……ああ。俺もだ」 「あんなに、自分のことをあとまわしにして、二番目でもいいなんていって、ひたすら待ちつづけてくれるひとを、私は知らない」寵家と藍家をいつも優先してきた楸瑛と緑牧を、ただのひと言もせめず。  下賜《カし》された�花菖蒲″に、疑問を抱《いだ》く自分たちを見ても、答えを出すのを待ってくれた。 「経倣……私はね、あんなに裏表なく、ずっと私を必要としてくれた人を、他に知らない。なんにも持たない私自身でも、追いかけてくれた人を知らない」  なんにももたなくても、必要としてくれる−。  最後の最後まで、信じてくれる。  だから、あの場所は|溺《おぼ》れるほどに居心地《いごこち》が良かった。  今の絳攸の手にほ、�花菖蒲″はない。  リオウ文鳥が、言葉ではなく、ピピ、と噂《な》いた。つるはしが消えていく。時間切れだ。  その喋《くちぼし》の方向を見れば、いつのまにか一輪の花菖蒲が咲《き》いていた。  絳攸は近寄ると、ためらわず花菖蒲を手折《たお》った。 「……俺もだ、楸瑛。�花菖蒲″をもらう前に戻りたいとは、思わない」  間違っていたことにあとで気づいても、その間に過ごした日々に偽《いつわ》りはない。 「……楽しかった。だから、俺はあいつに、ちゃんと話をしなくちゃならん」  それがどんな話になっても。  もう一度、ちゃんと話がしたいと思った。 「……王を、死なせたくないんだ」  楸瑛の溜息のような最後の言葉が、耳に残った。   一 量■■書▼縦の鯖書  半月ほどが過ぎた。  秀願は牢城監察《ろうじようか人さつ》の仕事をこなし、朝廷《らようてい》に戻る馬車に揺《抽》られて、ぼーっと外を見ていた。 『この間が藍将軍で、今度は経倣様。立て続けに、王の側近が二人とも。……何か起こっている気がするの。目先のことじゃなくて、もっと大きな。へソな言い方だけど……たとえば今回経紋様を助けても、元《ヽ》に《ヽ》戻《ヽ》ら《ヽ》な《ヽ》い《ヽ》気がするの』自分でいったあの言葉が、ひどく大事な気がしてならなかった。 「姫《ひめ》さん、今日も吏部尚書に会いにいくのか?」 「えっ、あ、ええ」 「なんだかめちゃめちゃ逃《に》げられて顔もまだ見てないってフ」  秀鰐は思いだして溜息をついた。 「……そうなのよ。私が何回訪ねても木の上から池の底までつついてあちこちさがしまくっても、もう頑《が人》として隠《カく》れて切れっ端《ばし》さえ見せないの。あのど根性、叔父《こんじようおじ》ながらお見事だわ」嫌《きら》われてるのかしら、と思い、最近は結構へこんでいる。 「……あーウソ、なんかどっこいどっこいのいい勝負ですげー姫さんの叔父っぽいわ」 「それもちょっと考えてることがあって……とりあえず、今日会えなかったら打ち切るわ」  ニヤツと振り返った燕青には、久々にヒゲが生えている。 「それも《ヽ》?」 「うっ……。ごめんなさい。緯紋様とは全然別の、今すぐ考えなくてもいいこと考えてたわ」 「でもさ、それ、なんだか気になるから考えちゃうわけだろ」秀麗はキョトンとした。……まあ、その通りだけれど。 「ちゃんと仕事してんだし、考えてろって」 「ん!…‥でも雲をつかむような話で」  ふと、塩屋が目に入った。思わず値段を確認《カくに人》してしまう。……少し高めだが、夏も終わったし、騒《きわ》ぐほどのことでもない。  牢城、塩ときたせいか、秀麗ほ御史台に入ってからのことを思い出した。そして。  T……あれ?)  そのとき、大路がざわめいた。 「ひったくりだぁ!」という声がする。  まるで十三姫と会ったときのようで、秀犀はぎょっとした。 (いやでももう後宮……に入って筆頭女官してるんだし、まさか達《らが》うわよね)  とはいえ十三姫なら筆頭女官になってもフラフラ出歩いていそうな気もする。  ……劉輝の筆頭女官。 『秀麗以外で正式に要《めと》るとしたら、十三姫にするL……劉輝が言い切った言葉を、不意に思いだした。  ざわ、と胸が震《ふる》え、おかげで馬車を飛び降りるのが|遅《おく》れた。燕青も飛び降りたが、ひったくりの走る方向とは反対側だったので出遅れた。人混《ご》みで梶《こ人》を投げるわけにもいかない。  逃げられる−と思った瞬間、|頭巾《ず きん》をかぶった誰かが、鮮《あぎ》やかな体術ですれ違うひったくりの腕《うで》をとらえ、捻って放《ほう》り投げて地面に叩《たた》きつけた。頭巾から零《こぼ》れたのは長い髪《かみ》。  秀鹿は|仰天《ぎょうてん》した。まさか本当に�。 「……十三姫!?」 「ほい?」  蔽《=》り返ったのは女性だったが、十三姫ではなかった。年上で、どことなく中性的な面差《おもぎ》しの美女だった。ふわりと癖《くせ》のある長い髪を見て、どうしてか秀麗は劉輝を思い出した。  女性は秀麗を見て、少し首を傾《かし》げー次いで何かに気づいたようにパッと笑った。  秀産はおかしな反応に、またまた十三姫を思い出した。面識はない……はずだが。  ふと見ると、彼女の脇《有き》に大きな包みが置かれていた。巾《きll》からのぞいていたのは、琵琶《げわ》だった爪女性はにこっと笑うと、何も言わずにその琵琶の包みを抱《九∵力》え、礼をして去っていった。  小さく手を振りながら、何度も何度も彼女は振り返ったので、秀麗も手を振りかえした。  すると、人混みに交じり始めながらも、嬉《うれ》しそうに大きく最後に手が振られた。  ひったくりに縄をかけていた燕青は、やたら親しげな様子にきょとんとした。 「なんだ、姫さんの知り合いだったのか?」 「うーん……覚えはないけれど、このごろ、相手だけが知ってるってことが多いから」  秀麗は本当に十三姫と出会ったときのようだと思った。そう−十《ヽ》三《ヽ》姫《ヽ》の《ヽ》件《ヽ》も《ヽ》そ《ヽ》う《ヽ》だ《ヽ》。  御史台に入ってからのことを思い返し、背筋がうそ寒くなった。なんてことだろう。 『でもさ、それ、なんだか気になるから考えちゃうわけだろ。考えてろって』  経倣様の件と煩雑《はんぎつ》な日常業務に追われて、大事なことを失念していた。 「……燕背、今日から仕事、増やすわよ。しばらく家に帰れないと思って」 「へ−い。徹夜《て一rlノ中》ほいーけどさ、姫さんの手料理がめっきり食えなくなるのがなぁ」 「あとでたくさんおいしいものつくってあげるわ。当分は隠《カく》れんぼおにぎりで|我慢《が まん》して」                                                                ヽ・√  本気でぷつぷつぼやく燕背の髭《..一_》をひっぼり、馬車に戻る。 「朝廷に戻りましょう、燕青。吏部尚書に会いにいくのは、今日で最後にするわ」       ・鴇・翁・ (今日も飽《あ》きずによくくるものだ)  楊修はここ数日、吏部をうろうろしている娘《むすめ》を今日も見かけて感心した。まあ、前と違って、ちゃんと他の細々《こまごま》とした仕事もこなしながらのようなので、そこらへんは点数が高い。  楊修はここ数日の吏部を思い返し、小さく笑った。                                                   ゝノ一丁 (特に、自分ともう一人の髭《す【・ll》男をうまく使ってますねぇ。なかなか御史に向いてきた)  幸か不幸か、楊修とアワテ娘はまだ鉢合《はちあ》わせしたことはなかったが、この日に限って足音がまっすぐ楊修の室《へや》に向かってきた。逃げる間もなければ、逃げる|隙《すき》もなかった。 「失礼します。吏部尚書はこちらにいらっしゃ−あらっ」  楊修の向かいにいた男《ヽヽ111111ヽヽ》を見て、秀麿は目を丸くした。慌《あわ》てて礼をとる。 「欧陽侍郎! ご無沙汰《�さた》いたしております。その節はお世話になりました。相変わらず−」|完璧《かんぺき》ですけどいろいろジャラジャラしてますねーと言いかけ、ぐっと呑みこむ。  ちょうど楊修をたずねていた工部侍郎・欧陽玉は《ぎよく》キラリと目を光らせた。 「相変わらず、なんですか? はっきり言いなさい」 「あい……あい、相変わらず……えーと、ステキな御髪《おぐし》でございますね!」 「当然です。毎日時間をかけて銀《こて》で巻いているのです。あなたのように朝に一度ザザッと適当に櫛《くし》を通したっきりの手抜《てぬ》き髪と|一緒《いっしょ》にしないでいただきたいですね。髪もほつれて官服に敏《しわ》が寄ってますよ。沓《くつ》もちゃんと磨《みが》きなさい。落ち武者ですかあなたは」落ち武者−!?そ、そんなにひどくはない……と思うけれど、欧陽侍即の手厳しい指摘《して竃ゝ》にまったく反論できなかったので、秀脛はうなだれた。あとで髪を杭《レ」》かしなおそう。 「すみません……以後身なりに気をつけます……」 「よろしい。十人並みの見栄《みぼ》えで、せめて身だしなみを整えなくてどうするんですか」 「……。……はい。あの、本日、吏部尚書はどちらにいらっしゃるかご存じですか」 「そんなもの私が知ってるわけがないでしょう。こっちの男に訊《き》きなさい」  楊修は短くなった髪を遠慮なく欧陽玉に引っ張られ、顔をしかめた。  仕方なしに秀麗と向き合えば、……思った通り、冗官《じょうか人》の時よりは使えそうな顔をしていた。 「吏部尚書室にいないなら、他《ほか》のどこかにいますよ。それ以上は捜《さが》し方次第《しだい》ですね」 「そうですか……わかりました。ありがとうございました」 「ちょっとお待ちなさい」  といったのは楊修ではなく、欧陽玉だった。欧陽侍即は楊修を指さした。 「どう思いますか、この男の髪型《かみがた》を」 「え? ど、どうって」 「いいか悪いかで結構。髪を適当に椀かしておしまい娘に深い洞察《ごうさ」》と芸術論に富んだ批評など期待しておりませんので。さ、正直に言いなさい。心のままに。無回答は受け付けません」 「そんな!」欧陽侍郎の目が光線を放ちまくっている。答え次第で秀麗の命運もわかれそうな気がした。 (ど、どっち!?欧陽侍郎はどっちの答えを望んでいるの!?いい!?悪い!?)  必死で欧陽侍郎の顔に答えを探すも、さすが高官。|一切《いっさい》心を読ませない。  秀麗はココ口のままに男性を見てみた。眼鏡《めがね》が白く光ってわかりづらいが、それでも非常に迷惑《めいわく》そうなのが見てとれる。官吏の男性で、こんなふうに短い髪は新鮮《しんせん》だった。髪の色が|途中《とちゅう》から違《ちが》うのも、この人には合っている……気がする。秀麗はごくりと生唾《な奉つば》を飲みこんだ。 「…黒いいん恒い、と思います…昌い…ケド」  げしようう数拍の沈黙の後、欧陽侍郎ほ至極満足げに至高の微笑を浮かべた。 「結構。お下がりなさい。まああなたにも多少の見る目はあるようですね。この髪は私が切ったのです。どうにもこうにも傷んで切るしかなかったのですが、なかなか気に入っています」危なかったー!! 秀麗は一気に激しい動惇《ごう.1、》を覚えた。悪いデスなんていおうものなら、子々孫々末代まで崇《たた》られていたかもしれない。  秀麗は一度何の気なしに扉《とげ・...》を出ようとし、気になってまたひょっこり首を出した。  楊修をまじまじと見つめる。眼鏡の男性は柴彰《さいしょう》しか覚えはないが、どこかで見たような。 「……あの、失礼ですが、どこかでお会いしたことはありませんか?」  楊修はにっこりと笑った。 「ありません。前世でお会いしたのでしょうかね」 「すみません勘違《かんちが》いでした」  秀麗は飛んで逃げていってしまった。  欧陽玉はまじまじと楊修を見た。長い付き合いだが、これほど適当な嘘は初めて聞いた。 「……あなたそういうあやしい商売もしてたんですか。前世ってなんです。全然気づかないあのお嬢《じよlつ》さんもお嬢さん……とは言えませんが今回は。気づく人間のほうが稀少《きしよ・ワ》価値です」今の鮮《あぎ》やかな彼の姿からは想像もつかないが、楊修はその気になればすぐにどこにでも埋没《まいぼつ》してしまう。態度や口調もそうだが、とにかく雰囲気《ふ人いき》がガラリと変わる。あっさり見破れるの  は欧陽玉くらいだろう。何度やっても一目で看破する。友人とはいえ、楊修はそれだけは面白くなかった。だからか、楊修は欧陽玉に対してはつい地が出る。 「で、何しにきた? 見ればわかるだろうが私は超多忙《ちょうたぼう》なんだ」 「この私直々に切った髪が乱雑に扱《あつか》われてないかどうか確かめにきたに決まってるでしょう」 「切らせろとかいって勝手にザクザク切っといてなんでそう偉《えら》そうなんだ君は?」 「似合ってるからです。我ながら上出来です。変装するときいつも私の|厄介《やっかい》になっていて、いまだ感謝の歌ひとつ|捧《ささ》げないあなたのほうがよほど偉そうだと自覚しなさい。しかしあなたの上司も|暇《ひま》ですね。ここ数日、あのお嬢さんから逃《に》げ回っているだけで給料がもらえるとは」 「もうしばらくの辛抱《しんぼう》だ」欧陽侍即は半蔀《はじとみ》の向こうで吏部尚書をさがして駆《か》け回っている秀麗を見た。 「楊修……あんまり景侍即に心痛をかけるのは感心しませんね。数少ないまともな−じゃない、まっとうな高官なんですからね。あの方に甘えるのもほどほどになさい」楊修はバツの悪そうな顔をした。 「あれは……反省してる。イライラしていて……ついきつくなった。|怒《おこ》って…らしたか?」 「ご本人に謝ることですね。イライラですか。あのお嬢さんの義理の従兄《いとこ》の李侍郎の件で?」楊修は答えなかった。こういうとき、嘘の通じない友人というのは厄介なのだ。  楊修も外で薮《やぶ》を木の棒でガサガサつついて黎深を捜している秀麗を見た。 (惜《お》しい。ちょっと仰向《あおむ》いて木の上をつつけば、お捜しの黎深ゼ、、、がボタッと落ちてくるんで  すけどねぇ。|坊《ぼっ》ちゃん育ちだから木にくっついてるのが|精一杯《せいいっぱい》でしょtL)  黎深と絳攸が時々話していた娘。いまもっとも仕事をしているのが彼女とは皮肉だった。 「正直、あなたが自ら李侍郎を切るとは思いませんでしたよ、楊修。まさに手塩にかけて育ててましたからね。自分のかわりに侍郎にまでして。何があったんです」 「いや、特に何もないな。何もなかったからこうなっただけだ」欧陽侍郎は楊修を見おろした。 「ずっと不思議に思ってましたが、なぜあのとき彼を吏部侍郎に推《お》したんです?」  確かに李絳攸も|優秀《ゆうしゅう》だったが、あまりに若すぎた。楊修でも|充分《じゅうぶん》若いと上から文句がきていたのに、さらに若い。経験も浅く、しかも上司になる紅黎深とは義理の親子。 「私はあなたより先に侍即に上がるとは思ってませんでしたよ。あの酔《よ》いどれが上司になったのはさらに論外でしたが。−紅黎深の手綱《たづな》なら、あなたのほうがうまくとれたでしょう」 「まあな。だが、それだけだと思ったんだ」 「え?」 「私が副官になるだけで、他は何も変わらないだろうと思ったんだよ」欧陽侍郎の視線を感じたが、楊修の目はただ秀麗を追っていた。  正確には、同じことをしていたかつての絳攸を。 「……絳攸には決定的に足りないものがある。侍郎にすれば、埋《一つ》まるかもしれないと思った。だが、結局何も変わらなかった。それはそれで仕方のないことだ」 「本当にそう思ってるんですか? 陛清雅に|潰《つぶ》されるくらいなら、自分が先に切り捨てた方がマシだと思ったんでしょう。陸清雅なら動いた瞬間、《しゅんかん》もう完膚《かんぷ》無きまで叩《たた》き潰されてクビ決定でしょうからね。だから先に動いた。少しの隙をつくって、お嬢さんの介入《かいにゅう》する余地を残した。まだ少し、期待してるんでしょう。最後に会いに行ったらどうですか」                                                   l_一ヽ.ヽ  ふと、楊修は訝《.,..1カ》しげに欧陽侍即を見た。だいぶらしくないことを言っている。 「・…何かあったのか?」 「そうですね。多少のことは。私の従兄の子供の母君の話なんですが」 「つまり従兄の奥方でうちの碧泊明の姉君だろう。碧歌梨殿だったか。まどろっこしい」 「ええまあ。碧家一門の至宝、碧幽谷殿のことです。いろいろ王やら何某《キにがし》やらが下手《へた》を打って、そう遠くないうちにお亡《な》くなりになることになりました」 「は? なにを|不吉《ふ きつ》なことをいって……」 「さすがに碧家が、怒りましてね。まあ私もカンカンに怒ってますが。碧拍明も、さすがにこたえるでしょう。よくみといてください」楊修もまた友人の言葉が嘘か否かくらいは見破れる。その言葉に含まれる意味も。 「……帰るのか」 「それは泊明殿次第ですが」 「お前のことだ」  半蔀から吹《ら》き込んできた銀杏《いちょう》の葉を、欧陽侍即は器用につかみとった。 「たぷんね」  素《そ》っ気なく欧陽侍即は答えた。 「もうあの酔っぱらい上司に付き合わなくてすむと思うとせいせいしますよ」  欧陽玉は黄色に染まった銀杏の葉を、楊修の机案《つくえ》に置いた。 「ここまできたら李侍即は吏部侍郎罷免《ひ.めん》確定です。|間違《ま ちが》いなくね。今さらあなたの計画に支障はないでしょう。イライラするくらいなら、最後に顔を見に行ったらどうです」       ・翁・翁・  スゴスゴ戻《もご》ってきた秀麗に、燕青は顔を上げた。 「やっぱダメ?」 「ダメ。……ここまでくると、さすがに、逆に考えた方がいいかもしれないわ」  吏部尚書は絳攸に会いたくないわけじゃなくて、会うとまずい理由があるのかもしれない。  カソのようなものだったから、秀席もそれ以上は言わなかった。 「で、燕青のほうはどう? 聞き込み」  燕青はガシガシと筆の尻《しり》で耳の上をかいた。まとめていた書翰《しよか人》に渋《しぶ》い顔をする。 「聞き込みは姫《ひめ》さんがバクバク駆けずり回って注意引いてくれたから楽だったけどさ。結果ははっきりいって全っ然よくないな。むしろ悪い。清雅君の調書が正しいって立証されただけだ」  |唯一《ゆいいつ》の女官吏は目立ちすぎる。秀溝が吏部で 「李侍郎って、最近どう?」なんて訊《き》いて回ろうものなら、次の日には廟舎《きゅうしゃ》の馬にまで秀犀と絳攸の状況が暴露《じょうきようぼくろ》されているに違いない。  なので秀席は逆手にとることにした。せっかく吏部尚書に会いにいくのなら、ついでにそれを利用しない手はない。毎日騒々《そうぞう》しく秀麗がぐるぐる吏部尚書を捜しまわって、その際《すき》に燕青の聞き込みも多少なりと楽になればいいと思った。 (……燕育って、どこでもストンとおさまるのよね!…こその気になれば武官にも文官にも簡単にとけこめる。何より警戒《〓いかい》心を抱《いだ》かせない。  その体力と行動力を生かして、秀麗が室《へや》で日常業務を片づけている間に、吏部はもちろん、吏部と関係ある部署を片っ端《はし》から当たって証言をかっさらってきた。  それにしても、今の燕青の報告には落胆《∴くた人》した。 「姫さん、今日はやけに落ちこんでるな? どした」  燕青にはなんでもかんでもばれてしまう。秀麗は素直に白状した。本当に落ちこんでいた。 「……同期が吏部に在籍《ぎいせき》してて、経倣様のこと、すごく尊敬してた子だったの。経倣様を追いかけて朝廷《らようてい》に入ったっていってたくらい。だから、訊いてみたんだけど−」あんなに緯倣様一筋だった碧拍明がひどく硬《かた》い顔で、 「……悪いが、今は話をする気分じゃない」と言い捨てて、去ってしまったのだ。  どうしてだろう。なんだか知らぬ間に大切なものがこぼれていく気がしてならなかった。  燕青は大きな掌《てのひら》でボン、と秀麗をなでた。 「そっか。そりゃしょげるな」 「しょげてるわ。……だって、調べれば調べるほど、……経倣様をかばえなくなるんだもの」燕青は否定しなかった。それが答えでもあった。  経倣様は間違いなく優秀で、有能な人だ。それは今までの実績が証明している。けれどー。  今の経紋様には、一つだけ、欠けているものがあるのかもしれないと思った。  それは、吏部侍郎という官位には、多分致命的《ちめいてき》なものだったのだ。  秀麗はポッソと|呟《つぶや》いた。このごろ、くりかえし思い出す言葉がある。 「燕青、私一番最初にね、葵長官にいわれたのよ。経倣様は絶対クビにするって。緯紋様の何を以《もつ》て朝廷に必要だというのか、|証拠《しょうこ》を並べ立てて私に知らしめてみるがいい−つて」『御史大獄《たいごく》までに考えておくんだな。予言してやろう。その答えがわかれば、お前は必ず李経《ヽヽヽヽヽヽヽ》牧《ヽ》の《ヽ》弁《ヽ》護《ヽ》か《ヽ》ら《ヽ》手《ヽ》を《ヽ》引《ヽ》く《ヽ》。だがひと月捜査《●てうき》をしてもわからず、御史大獄の日まで李絳攸の留任をほざいているようなら、そんな無能は御史台に必要ない。李経倣と共に仲良くクビだ』燕青は頬杖《ほおづえ》をついて深々と|溜息《ためいき》をついた。 「……間違ってないな。吏部侍即に就任してからの仕事、特にこの半年は痛い。李侍郎さんがあのへソな状態にならなかったとしても、あんまし状況は変わらなかったかもな」絳攸は確かに誰より仕事をしていた。けれど、吏部侍即としていちばんしなくてはならなかったある決断を、この半年、最後までやらなかった。……いや、できなかったのだろうと思う。  けれどそれこそが葵皇毅がクビにするといった理由であり、絳攸にとっての致命傷だった。 「上司が悪かったと.いえばそれまでだが、そんなもんは『やるべき仕事』をしなかった言い訳にゃなんねぇ。木《こ》っ端役人《はやJヽにん》ならともかく、大権を預かる侍即だと跳ね返るモソが大きすぎる。もし姫さんが、この調書を見て吏部侍郎として適任ですといったら……ま、能力を疑うな」  そうね、と秀麗は呟いた。理不尽だと思った葵皇毅の言葉だが、……間違ってはいなかった。 「……御史の適性皆無《かいむ》って、私もクビにされるわね。緑倣様と|一緒《いっしょ》に」  絳攸も、自分が間違っていることを知っていたから、おとなしく清雅に捕《つか》まったのかもしれなかった。間違っていても、どうしようもなくて、ずるずるときてしまって。 「どうするっ・・葵長官の言う通り、手を引くか?」  秀麗は息を吸った。その答えは決まっていた。 「……ひかないわ。最後まであきらめないわよ」 「大事な師匠《.しし上てり》で、身内だから?」  秀麗はキッと燕青を見据《み†》えた。 「違うわ。相手が誰だろうと同じことをするわよ。最後の最後まで、一番いい道を探すのが私たちの仕事でしょう。それができるのは、いま、私と燕青だけなのよ。ギリギリまであきらめないわ。経倣様にとって、このままクビがいいとは思わない」燕青は破顔した。秀麗と出会った者はどんなにか幸せだろうと思う。 「ひっくり返すのは、超ド《ちよ.つ》級にむっかLtぞ」 「やらない理由にはならないわ」 「その通りだな。わかった。けど、もし最後までひっくり返る目が出ないままだったら、実力行使しても俺は姫さんにあきらめさせるからな。それが俺の仕事だ。一緒にクビになるのは、いちばんアホで無意味で最悪な選択肢《せんたくし》なのはわかるよな。うつくしーく師弟《してい》一緒にクビになるより、どっちか一方が残るべきだ。可能性があるのは姫さんのほうだ。俺は絶対残すからな」秀麗はぐっと唇を噛《くちびるか》みしめた。燕青のいわんとすることはわかっている。  経倣もろとも秀席までクビになったら、劉輝の掌には何が残る。何も残らない。  万が一の覚悟は決めなくてはならなかった。言葉にするまで、だいぶ時間がかかった。 「わかってる。燕青、そのときは、あきらめる。……緯倣様は私が罷免するわ」  最後の最後は、それこそを絳攸も望んでいるはずだと、思った。  �花菖蒲《は左しようぷ》″をずっと|握《にぎ》りしめたまま、離《はな》さないでいるあの生|真面目《まじめ》で|優《やさ》しい人なら。  ぱちぱちと拍手《はくしゅ》が響《ひび》いた。秀麗がぎょっとして振《抑》り返ると、昼間に吏部で欧陽侍郎《じろう》と一緒にいた眼鏡《めがね》の男性が、小さな扉の隙間《とげ・りすきま》で拍寺をしていた。 「だいぶ不用心がすぎますね。ちゃんと締《し》め切って会話しなさい」 「す、すみません」  なぜだか秀麗は謝ってしまった。  しかし、御史台に入ってこられるとは、相当官位の高い人だったのだろうか。 「私に何かご用件ですか」  秀麗を、楊修はまじまじと見おろした。血縁《けつえん》関係がなくても、やはり不思議と線紋に似てい  た。いい嫁《よめ》になれそうなのに。  でも官吏にも向いていたのだろう。少なくとも絳攸とアホ黎深よりはずっと。  この娘《むすめ》でさえ、一つ一つ考えていけば、こうして出してしまえるような答えなのに。 「……そこまで理解したあなたにご褒美《はうげ》として、一つ、教えてさしあげましょう」 「はっ・」                   ユ_J 「清雅が狙《一》《.》ってるのは、厳密には李絳攸ではありません」  秀麗は口を丸くした。�え? 「何がまだ守れて、何がもう守れないのか、よく考えて行動しなさい。紅黎深が最初で最後に、王に出したなけなしの助け舟《ぷね》です。まったく、この世の終わりがこようとありうるはずがなかったそんなパンダよりも稀少《ちtlしよlつ》な機会を、終値は全っっっ然気づかず、どぶに捨てようとしていますがね。……そのときはあなたが拾ってやってください」そうして、楊修はおもむろに李線紋との面会を希望した。  絳攸の先輩だという楊修を地下牢に案内してから、秀麗と燕青は顔を見合わせた。 「……ねえ燕育、さっき、なんかものすごく何もかもわかってる的な発言だったわよね」 「すげー意味深だったな。誰だろ今の。面会|名簿《めいぼ 》……お、ちゃんと書いてあら。楊修」 「楊修!?」 「知り合いっ」 「え、いえ、名前……同じ人……知ってる……知ってた……けど」  冗官騒動《じょうかんそうごう》の時、吏部試に受かりたいと秀麗に泣きついてきた同じ名前の青年はいた。  いかにもお人好《ひとよ》しそうで、ぼけうとしていて、どこもかしこもとろそうで。 (年は同じくらいだったけど、顔! 楊修さんの顔ってどんなんだったかしら……。清雅と反対でものすごく影《かげ》が薄《う†》かったから顔の細かい部分までもうよく覚えてナイわー)そういえばあの人はどこの部署に配属されたのだったろう。トンと顔を見ない。  しかしまさか今の、見るからにビシバシできる男性と同一人物ではあるまい。あまりにも印象が違《ちが》いすぎる。同姓《ごうせい》同名の別人に違いない。よくある漢字と名前だ。うっかり埋没《まいぼつ》しそうなほど平々凡々《へいへいぼんぼん》で本人も 「どちらの楊修さん? つてよく言われるんですよー」っていっていた血それに秀麗の知っている楊修さんは眼鏡かけてなかったし、髪《かみ》もあんなに短くなかった。 (……。でもさっき、欧陽侍即がこないだ私が切りましたとかっていってたわよね……)  欧陽侍即の手で、ちょっぴり田舎《いなか》風ダサダサ青年もデキルモチ男に大変身とか!?……なわけない。いくら欧陽侍即でも、あの思わず道を|譲《ゆず》りたくなるような威風《いふう》までとってくっつけられるわけがない。 「……他人のそら似だと思うわ……多分」 「ふーん? でも確かに、デカイお年玉落としてくれてった感じだよな」  秀麗は唇を噛《くらげるか》みしめた。彼の言葉はものすごく気がかりだったが、冗官騒動で別件を思いだ  した。牢城《ろうじょう》から帰る|途中《とちゅう》、どうしてもやらなくてはならないと思った仕事がある。  なのに他の仕事や現実に気をとられて、あっというまにまざれてしまう。けれどまざれて放ったままにしておいたら、余計あ《ヽ》の《ヽ》ひ《ヽ》と《ヽ》の思うつはな気がした。 「燕育……こき使ってごめんね。もう少し頑張《がんば》ってちょうだい」  燕青は驚いたように日を丸くした。次いで、秀麗を抱《だ》き寄せてボンボンとあやすように頭を叩《たた》いた。秀願にもなぜだかわからなかったが、どうしてか涙が《なみだ》でそうになった。 「ビーした姫さん。疲《つか》れたか?当たり前だろ。そーゆーことは気にしないんだよ。隠れんぼおにぎりつくってくれたら、もうなん頑張りでもしてやるって」日向《けなた》のにおいのする燕青の胸で、秀麗はうん、と額《・」なず》いた。  そのあと、楸瑛がリオウを抱《カムり》えて入れ違いに上がってきた。 「ごめん、秀薦殿。ちょっと診《み》てくれるかな。なんだか日に日につらくなってくようで」  秀麗は仰天し《ぎようてん》た。慌《あわ》てて脆《けぎまず》く。熱も少しある。心身ともに消耗が《しょうもう》ひどく激しい。 「休ませないと。|寝台《しんだい》に寝《ね》かせてー」  すると、リオウが秀麗の腕《うで》を払《はら》った。 「……移動させるな。休んでれば、回復する。もうすこしで……」  リオウの役目は『出口』を確保し、方向を教えること。けれど絳攸が出口に近づくごとに、文鳥に入ることが困難になった。まるで瑠花が押し戻《もど》そうとするかのように、すぐに『外』に  排除《はいじょ》される。導く時間が短くなり、さらに短時間でも相当消耗するようになっていた。  紅秀贋が、水をあてがってくれる。リオウは喉《のど》を鳴らしてゆっくりのんだ。  李絳攸を助ければ、伯母《おぼ》の逆鱗《げきりん》に触《ふ》れる。それでもやると思ったことができたなら。  碧歌梨のこと、王のこと、繚家のこと、自分のこと。ちゃんと考えられる気がした。  そのまま気絶するように、リオウは眠《ねむ》った。       ・能・能・  絳攸と『対面』した楊修は、むしろ|呆《あき》れ果てた。もうダメかもしれないと思った。  現実でも夢の中でも、人生でも、いつも迷ってばかりいる。  いつも、たった一人のために。  それではいつまでたっても何も変わらない。 「……君がわからないというのはこれか? 紅黎深が何を考えているか、どうして仕事を|一切《いっさい》しなくなったのか、彼がなぜ君に何も言わないのか、なぜ君を助けようとしないのか。なぜ、君に会いに来ないのか。彼が何を望んでいるのか」楊修はゆったりと腕を組んだ。 「まったく……なぜわからないんでしょうね。そのほうが不思議ですよ。私にもわかることだ」何度いっても、伝わらない言葉のほうが多かった。 「……君はいつもそうだったな。私がいくら認めても、君には何の意味もなかった」  君の世界には、紅黎深しかいないようだった。  黎深ごときに認められようと、努力を重ね、朝廷随一《ちょうていずいいち》の才人とまで言われるようになった。  それが特別でなくてなんなのだ。  けれど、言葉を尽《つ》くしても、絳攸は理解しなかった。  子供が親の欝《ま》め言葉を絶対の秤《はかり》とするように。絳攸は黎深の言葉を己《おのれ》の秤にした。  このままではダメだと思った。いくら稀有《けう》な才を伸《の》ばしても、自分の秤がなければ、自分で自分を認めることもできない。いつまでも黎深の言動に左右される子供のままだ。  それを越《二》えさえすれば、自分の足で立てる一人前の官吏になると思った。他《ほか》の能力はもう充《ビ紬う》分《ぶん》備わっている。黎深への依存《いぞん》をやめることがでされば、きっと化ける。  だから多くの反対を押し切って、吏部侍即に推《お》した。紅黎深を越えてくれることを願った。  紅黎深の手綱《たづな》なら、楊修のほうがもちろんうまくとれた。線紋と違って甘くもなければ|容赦《ようしゃ》もないから当然だ。けれどそれでは何も変わらない。  何も変わらないままより、絳攸が変わってくれる可能性があるほうを楊修は選んだ。 「……でも君は呆れるほど頑固《がんこ》に変わりませんでしたねぇ……」  何年経《た》っても、何一つ進歩がないまま。  何も変わらなかったから、楊修は見切りをつけた。これ以上待ってもムダだと悟《きと》った。  絳攸はついに、『吏部侍郎』になれなかった。黎深のお守り以外の何物にもなれなかった。 「まあ、君を子供のままにした責任は、紅尚書にもありますけどね……」  待てど暮らせど経紋は変わらず。ゴタゴタし始めた中で、黎深が一手を打った。 「どうして紅尚書があんな行動をとってるか、本当にわからないというんですか? 今あなたが何をすべきか、本当にわからないというんですか? どこまで私を幻滅《げんめつ》させるんです。−自分で考えて、答えを出しなさい。君が紅尚書のいちばん近くにいた人間でしょう」びくりと、微《かす》かに絳攸の瞼が揺《まぶた紬》れた。  楊修は二度と振り返ることなく、格子《−】一ソし》をくぐり、牢を出て行った。       ・線・翁・  絳攸は朝廷にいた。  リオウ文鳥がただの文鳥に戻ると、それまで山あり谷ありでも見えていた『遺』が消えてなくなる。かわりに、|記憶《き おく》の中の風景が目の前に現れる。  絳攸の前に、今より少し若いくらいの、自分がいた。そして、その前には楊修が。  楊修は若い締仮に気づくと、かけていた眼鏡《めがね》を外し、ちょっと皮肉げに目角をつりあげた。 「ああ、ようやく誰《だれ》かさんと違って使えるのがきたかな。ま、せいぜい長くいてくれ」  それが、楊修の最初の言葉だった。  楊修は容赦なく吏部で絳攸をしごいた。仕事にまるきり無関心な黎深のかわりに、楊修はトrJトン緑牧を|鍛《きた》え上げた。官吏としての一から十を叩き込み、ガ、、、ガ、、、叱《しわ》りとはし、状元及《じょうげんきけう》第《/L》の絳攸をこき使い、雑用も山ほどやらせ、|滅多《めった 》にないが、褒めるときは褒めた。  絳攸の可能性を認め、期待をかけてくれるがゆえの厳しさというものを、絳攸はこのとき初めて知った。一度も逃《に》げたいなどと思ったことはなかった。楊修にとってはお荷物なだけで何も得などないのに、時間を割《さ》き、心を砕《くだ》き、教え導き、絳攸と向き合い、育ててくれた。 「どうして俺が楊修様を差し置いて吏部侍郎なんです!」  若い経仮が、楊修に食ってかかっていた。楊修は|眉《まゆ》を上げた。 「不満なのか」 「おかしいじゃないですか! 誰だっておかしいと思うに決まってます。楊修様がなるはずだった官位です。俺にかわりが務まるわけがありません!」楊修はふと微笑《げしょう》した。 「なぜだっ・・他ならぬ私が君を推したんだ。自信をもてないはずがない。やりなさい。何度もはいわない。−私は君が、私を越える官吏になることを期待している。そうなれる官吏だと思っている。私がしてやれることは全部した。あとは……君次第《しだい》だ」少しだけ、楊修の双膵《そうぼう》が何かを思うように沈《しず》んだ。 「自分が正しいと思ったことを|貫《つらぬ》ける官吏になりなさい」  どんなに、楊修が自分を気にかけてくれていたか、絳攸は思い出した。  楊修は、李絳攸を認めてくれたひとだった。  手塩にかけて本気で絳攸を育ててくれた。すべてに愛情と期待がこもっていたのがわかるほど。無関心の黎深とは正反対で、嬉《うお》しくて、その期待に応《こた》えたかった。  官吏において、尊敬する人は誰かと訊《き》かれれば、締牧は迷わず楊修と答えるだろう。  絳攸は目を閉じた。あの人が、自分に何を望んで吏部侍即にしてくれたのか。 『−私は君が、私を越《一l−》える官吏になることを期待している』  ……彼は待っていてくれたのだ。最後の最後まで。ギリギリまで。 『自分が正しいと思ったことを貫ける官吏になりなさい』  与《あた》えてくれた言葉を何一つ生かすことができなかった。  すべてをあきらめて癖癖《かんしや・\》を起こし、投げだした。 『そんなに|呆気《あっけ 》なくあきらめるのか、君は』  最後の最後まで、そう、訊いてくれたのに。  そのとき、文鳥が一度だけ楊修の声でしゃべった。 『どうして紅尚書があんな行動をとってるか、本当にわからないというんですか? 今あなたが何をすべきか、本当にわからないというんですか?どこまで私を幻滅させるんです。−  自分で考えて、答えを出しなさい。君が紅尚書のいちばん近くにいた人間でしょう』      ■−  百合の音色  絳攸にはあまり変化が見られないまま、また無為《むい》に数日が過ぎた。                                                      ヽ′ 「……考えすぎて頭が沸《−》きそうだわ」  もう何十ペん読み返したかわからない、清雅の調書を睨《にら》みつける。まったく、熱出してへ? へ? してたくせに、なんだってこんなどこもかしこも|隙《すき》のない小憎《こにく》らしい調書が書けるのか。  清雅の調書はここ半年だけでなく、過去に遡っ《さかのぼ》て調べてあった。  女人固試も試験の際の特例措置《そら》も、秀麗と影月の茶州州牧への抜擢《ぼってき》も。大官たちの反対を押し切ってのいくつもの『特例�特に絳攸は人事に関係する吏部侍即だったため、人事権の濫《・りん》用《よう》と見なされていた。秀寅と|従兄妹《いとこ》の間柄《あいだがら》だったのも痛い。すべてが悪い方向へいっている。  燕青ははうと|溜息《ためいき》をついた。文句のつけようもない。 「『公私をないまぜし、人事にあるべき中立性を著しく欠くばかりか、国を預かる大官としての資質が問われる』……ね。ぐあー反論できねぇなぁ」何よりも秀贋と燕青自身が当事者なのだ。絳攸が人事権の濫用のつもりなどなかったことはよくわかっている。けれど、客観的にどう見えるかは、清雅の調書がすべて物語っている。 「あの男、今ごろ私のこと鼻で笑って−」  ふっと秀麗は口を喋《つぐ》んだ。……今ごろ? 「考えてみれば、何の音沙汰《おときた》もないわねあの男。たまにきて面会記録とか確認《かくにん》してるみたいだけど、牢《ろーり》にまでは降りないみたいだし」秀麗に違和感《いわかん》がよぎった。 「もう『李侍郎さんは情緒《じょうーちよ》不安定でダメっぽい』って調書害いちゃったんじゃないの」 「だとしたら、じゃあ清雅はいま何《ヽ》をしてるの?」 「まあそりゃ仕事だろ。ちゃんと出仕Lてるしな」 「なんの?」  ふと、燕青が真顔になった。なんのと訊かれるとは思わなかったが、言われてみれば。 「清雅はいま何《ヽ》の《ヽ》仕《ヽ》事《ヽ》をしてるの? この清雅から借りた調書だって、かなり下の方から引っこ抜《ぬ》いてたわ。あんまり見てない|証拠《しょうこ》よ。返せともいわない。この間会ったとき、すごくイライラして、だいぶ疲《つか》れてたけど、熱出しても薬飲んで仕事優先させるようなヤツよ」仕事をしていないわけがない。だとしたら、いま、何の仕事をしている? 絳攸が起きる可能性だってあるのに、それさえ頓着していないような無視の仕方。 「……そういえばあのとき清雅、本当にイライラしてたわね……?」  熱を出しても余裕《よゆう》をぶっこきたがっていた清雅だ。体調のせいではないだろう。そう、牢に下りるまでは|普通《ふ つう》だった。そのあと確か何かを見て、急にイライラした�。 「……面会記録だわ。あれをみて、いきなりイライラしたのよ」 『そんなのはお前の勝手な理屈《りくつ》だろ。……ちっ、他《はか》に面会はゼロか』  舌打ち。他《ヽ》に《ヽ》面会はゼロ。  今も、清雅は絳攸の状態は無視で、面会記録だけ確認しにきている。  劉輝と楸瑛以外で、絳攸に面会にくるだろうと清雅が思っている近しい相手。 「……吏部尚書が経倣様に会いにくるのを、清雅は待ってる……?」 「義理の父親が息子に会いに来て、なんか清雅がしてやったりって思うことがあるか?」 「でも実際、清雅はイラついてたんだから、会ったら何か引っかけられてたのかも」 「今さら?引っかけなくたって李侍郎さんより、吏部尚書のはうがまずいだろ。李侍郎さんは仕事してたけど、吏部尚書は全然なんだからな。歴然だろ」 「……え?」秀麗はじっと燕青を見つめた。まるでその顔のどこかに解答が書いてあるかのように。 「……わかった。燕青、それ、当たりだわ」 「は?」 「なんで、清雅がこんなに経倣様をほったらかしにして、私に丸投げ、任せっきり、いいようにさせてるのか。……私も経倣様の罷免《ひめん》をひっくり返すのは難しいって思ったのよ」やけにあっさり、絳攸を秀虜に預けた。調べることもしなかった。 『俺の仕事はおかしくなった李絳攸を元に戻《もご》したり、原因究明に|奔走《ほんそう》することじゃないんでね。  それは医者の仕事で、俺《ヽ》た《ヽ》ち《ヽ》の《ヽ》仕《ヽ》事《ヽ》じ《ヽ》ゃ《ヽ》な《ヽ》い《ヽ》。構ってられるか』 「清雅の仕事は他にある。もっと前から地道に調べてた清雅は、もう締倣様に関して調べる必要はないと思ったとして1次《ヽ》の《ヽ》仕《ヽ》事《ヽ》にいったんだわ……」燕青はすぐに意図をつかみ、きゅっと眼を細めた。 「……ちょっと待て姫《ひめ》さん、じゃあセーガくんが今やってる仕事っつーのは−」  次々手柄《てがら》を立てている清雅が、経倣様より優先させるほどの大物。  秀麗は青ざめた。早すぎる。秀麗が絳攸の件をひっくり返そうと|躍起《やっき 》になっている間に。 「清雅はもう吏部尚書の捜査《一てうき》に入ってるんだわ。燕青、言ってたわよね。私に近しい人が多すぎる……つて。|普通《ふ つう》は回さない。けど、葵長官は許可した。私を経倣様の罷免問題に集中させておくためだったのかもしれない。だから葵長官も、緑紋様の|状況《じょうきょう》を知っても、すぐに|宰相《さいしょう》会議にあげないでまだ待っててくれた……」秀麗を藍州に行かせている間に清雅に締牧を拘束《こうそく》させたように、今度は絳攸を岡《おとり》にした。  あの情など冷然と切って捨てるような葵皇毅が猶予《ゆうよ》をくれるなど、改めて考えれば彼らしくない甘さだ。けれど秀麗は絳攸のために、猶予ができたことにただホッとした。  秀麗はゾツとした。頭がぐるぐる混乱した。とんだ落とし穴が用意されている気がした。 「ちょっと……ちょっと待って。清雅の仕事の速さは尋常《じんじょう》じゃないのよ。それに、私たちが王を捜《きが》しに藍州に行ってる夏の間−清雅はまるまる吏部の捜査に使ってたとしたら」同じ吏部の件だ。清雅がもうほとんど、吏部尚書の件を固めていてもおかしくなかった。  だと、したら。 「……なあ姫さん、御史大獄は、今のところ開かれる予定なんだよな」 「え、燕青……ななな何がいいたいのよ」 「わかってるだろ?」  わかっていた。秀麗はぎゅっと目をつぶった。 「御史大獄は……緯紋様のためだけに用意されてるわけじゃなかったのかも。数日後、一気に吏部の尚書と侍即が解任される可能性がある……」燕青はぬるくなった茶をすすりながら、藍州の件を思いだした。 「まずは藍家で、今度は紅家か」  ……え? 秀麗はその言葉に思考が止まった。いま、燕青がすごく大事なことをいった気がした。けれどそれが何かつかむまえに、網《あみ》から逃《に》げられてしまった。  吏部尚書がどうしてあそこまで秀麗から逃げ回るのか不思議で、もしかしたら連なのじゃないかと思ったことを思い出す。経紋様に会いたくないわけじゃなくて、会うとまずい理由があったのかもしれないーと。それは、今さら保身など無意味な紅尚書のほうにではなく。 「……紅尚書のはうじゃなくて、逆。会って立場がまずくなるのは経倣様……?」  何かが、はまりかけた。そこに、重要な答えが隠されている気がした。 「|鍵《かぎ》は……紅尚書?」  そのとき、燕青がじっと秀麗を見ていることに気がついた。目を向けると、燕青が訊いた。 「なあ姫さん、姫さんがなんとかしたいのは、吏部侍郎? それとも李絳攸さんか?」 「え……?」 「多分、どっちかで道がわかれる。よく考えたほうがいい」  助けたいのは吏部侍即か、李絳攸か−?  ひどく大事なことをいわれたのは、わかった。そして紅尚書に鍵が隠《末り.ヽ》されていることも。 「……とにかく、王にあって話をしてくるわ」  そのとき、御史台所属の武官が扉を叩《とげlらたた》いた。 「紅御史、|一般《いっぱん》の方ですが、面会したいという女性がいらっしやってます」 「女性?」  秀麗は首を傾《かし》げつつ、御史台の入り口まででた。  すると、大きな包みを抱《かか》えた、長い癖《・、せ》っ毛の女性が背を向けて立っていた。秀麗はその包みに、見覚えがある気がした。                                                                           曾ノ  l′ (あ、ひったくりをつかまえたひとがもってた琵《ァ》琶《ー》−)                           tLT  女性が振《r》り返る。秀歴は目を丸くした。本人だった。 「あの、失礼ですが、どちらさまでしょう? どういったご用件で……」 「私は絳攸の母で、百合と申します」  にっこりと、百合は|微笑《ほほえ》んだ。 「絳攸に、身内として面会を申し込みにきました」       ・翁=・翁・ (ということは、あのかたが私の叔母《おぼ》様……)  秀麗は足早に府庫に行きながら、百合を思った。玖椴以外の『|親戚《しんせき》』を知らなかったので、ちょっとドキドキした。劉輝に会いに行く用事がなければ、お話ししたかったのに。  秀鷹は劉輝と内密に会うときは、府庫の父に言付けることになっていた。そうすれば父が楸瑛と連絡《ーlんらく》をつけ、奥の個室で会えるようにしてあった。  けれどさすがに父の顔を見ると胸が痛かった。……大切な弟だといっていたの正、娘の在籍《むすめlゾJいせき》する御史台が追い落とそうとしているのだ。  秀麗は用件を吾げたあと、ふと思いついて、父に訊いてみた。 「父様、一つ訊いていい?……紅尚書は、経紋様のこと、どう思ってるか、知ってる?」 「知ってるよ。とてもとても大事にしてる。私が君を想うのと同じくらい。経倣殿を見て、わからないかな。彼を育てたひとだよ」秀犀はじっと父を見つめた。そして、ほうと息を吐《■ふ》いた。そのとおりだ。 「そう……そうよね。わかった。……ありがとう父様」  さほど待つこともなく、鍵が開けられる音とともに、劉輝と楸瑛がすべりこんできた。 「絳攸に何か変化があったのか?」 「残念ながら。でもいま、経倣様のお義母さまが訪ねてらして−」  劉輝も軟瑛も耳を疑った。……今、何か信じられない単語が入ってきた。 「……え、誰《だfl》、だって? 秀霹殿」 「だから、緑紋様のお義母様。百合さんてお名前の、ものすごく締鷹《き一lい》な方で」 「本物か!」  劉輝と楸瑛は俄然《がぜ人》興奮した。 「ぜひお会いしてみたいぞっ。あの幻《まぼろし》の吏部尚書の奥方がここにっ!」 「彼の奥方が務まるような女傑《じよけつ》……じゃない、女性なんて存在するだけでこの世の|奇跡《き せき》だ」 「はい、ちょっと待って。そのために呼んだんじゃないのよ!」  バン、と秀麗は手を叩いた。 「……劉輝と楸瑛様は、仕事柄《しごとが・り》、紅尚書のことをもちろん知ってますよね?」 「それはまあ……秀麗よりはな」 「何か私たちに訊きたいことでも?」  父の言う通り、もし紅尚書が緯倣様のことを大事に想っているのだとしたら。 (経倣様が拘束されたのは、紅尚書が仕事をしなくなったせいだわ。だけどー)  たとえば父なら、どんな状況でも最後の最後まで秀麗を助けようとしてくれるはずだ。  紅尚書の一連の不可解な行動には、何らかの意味があるのなら。思えば玖琅叔父《おじ》様をして、自分より遥《はる》かに頭のいいかただと言わしめたほどの人なのだ。経仮を助けられる糸の端《はし》は、養  父の紅尚書が|握《にぎ》っているとしたら。  清雅よりは遥かに少ないだろうが、秀寮も絳攸のことを調べがてら、上司の紅尚書に関しても大体の情報を得ている。それに会えほしなかったが、吏部に日参もした。 「紅尚書のこの数ヶ月の行動には、ものすごく矛盾《むじゅん》と疑問があると思うんだけれど」 「……ないほうが少ないぞ」 「そうそう、うちの龍蓮みたいな人だから」 「でもね楸瑛様、確かに龍蓮も|奇天烈《き て れつ》てんこ盛りな言動しますけど、あれ、一応本人的にはなにがしか考えてやってるんですよ。普《…、》通《う》の人より斜《なな》め四二度くらいずれてるだけで」龍蓮が聞いたら喜ぶだろうなあと楸瑛ほほくそ笑んだ。あとで教えてあげよう。 「へソなことも、本人には理由があるのかもしれないっていう前提で。矛盾其《一て》のこ秀麗が人さし指をたて、重々しく告げた。 「−なぜまったく仕事をしないのに口々キッチリ出仕だけはしてるのか」  沈黙《らんもく》がおりた。  それを矛盾其の一にあげてきたところからして二人の斜め四二度をついた。そこなのか。 「…………………………………………でも言われてみればナゾだな」 「確かに……絳攸が毎日ひきずりだして遅刻《ちこJヽ》させないのが大変だって言ってたけど、この半年はそんな余裕《よゆう》なかったはずだし。自発的にきちんと出てたわけか。それはおかしいな!」撒瑛がやけに強く言い切った。おかしすぎると自信満々に思っている模様。                            す、J  劉輝も首を捻《r一一■》った。紅尚書のへソな行動はいつものことだから気に留めなかったが。 「……以前はフラフラ郡……でなく、府庫やお友達などのもとに好き勝手に出歩いていたが、……仕事をしなくなってからは、おもに尚書室から動かないと聞いている」以前のように、仕事は嫌《き、り》いだが、会いたい人はいるから出仕、という行動ではない。  秀麿はトン、と机案《つくえ》を指で叩いた。 「……普通、仕事やめようって決めた人がとる行動っていったら一つよね」 「そうか……普通は自分からやめるな」  楸瑛は尻《しhり》の据《Lr》わりが悪そうにゴソゴソ動いた。ついこないだやめて出戻ってきた身には耳にいたい話である。 「劉輝、誰か大官が辞めたがってる紅尚書を引き留めてるとか?」 「辞めたがってる紅尚書を引き留める!?」  なんだかすごい普通の人っぽい話に、劉輝はものすごい違和感《いわかん》をおぼえた。 「い、いや、紅尚書が仕事をしないのlなんかいつものことだったし。彼なら辞めたかったらその日の内に直接余のところに乗り込んできて、やめるといって終わりにすると思うぞ」 「朝廷《ちょうてい》での立場とか地位とか保身とか、あんまりこだわらないひと?」劉輝も楸瑛もそろって額《うなず》いた。 「こだわらないというか、彼にとっては三軒隣の床下《げんとなl−紬かした》に住み着いてる猫《ねこ》が三年前に六匹仔猫《けーきこねこ》を産みました程度のもんのすごくどうでもいい話だろうね」 「すごいどうでもいい話だな楸瑛。確かに守らなくてもなんでももってるからな」 「じゃあ、……どうしてこんな行動してるのかしら。これじゃあ、クビになるのをじっと待ってるだけにしか見えないわ」紅尚書に何か鍵が隠されているのだ。それさえわかれば−。 『紅黎深が最初で最後に、王に出したなけなしの助け舟《ぶね》です』 「すまぬ、秀麗……最悪の場合はそなたに、絳攸を」  劉輝は秀麗の手を、両手で|握《にぎ》り、額に押し当てた。その手が震《・舟る》えた。  劉輝のために、何とかすると決めたのだ。それでも何ともならなかったときは、私が残る。 「   …   え?」  その瞬間、《し岬んか人》カチソ、と何かがはまった気がした。  楊修の言葉が蘇《よみがえ》る。 『清雅が狙《ねら》ってるのは、厳密には李絳攸ではありません』  次いで、秀麗は楸瑛を勢いよく振り仰《あお》いだ。 『まずは藍家で、次は紅家か』  食い入るように見つめられた楸瑛ほ面食《めんく》らった。本当に穴が空きそうだ。  どうして紅尚書は自分から辞めないでいるのか?  仕事をしないのに、日がな一日吏部尚書室にいるのは?  どうして紅尚書は、クビをただ待っているような行動をしているのか?  経倣様が困るのを承知で、こんなことをした理由。  どうして紅尚書は、一度も絳攸に会いにこようとしないのか? それを、清雅が『当てが外れた』と思ったのほなぜ?『なあ姫さん、姫さんがなんとかしたいのは、吏部侍郎? それとも李緯倣さんか?』 「……わかった」秀庫は|呟《つぶや》いた。わかった。  どうして紅尚書が、ずっとこんな意味不明な行動をし続けているのか。         ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ  何を待っているのか。  まだ間に合う。でも、時間がない�。秀麗は戟懐《せんりつ》した。 「劉輝、聞いて。緯倣様を助けるためには、あなたの行動が重要になるかもしれない」  けれど何よりも、緯倣自身が起きて、絶対にしなければならないことがある。それは秀席では意味がない。       ・翁・翁・  悠舜は史郎の資料室に赴《おもむ》いた。そろそろ必要な書物があった。  人事録を本棚《は人だな》から次々抜《ぬ》き出していたが、つい片手に抱《かか》えすぎて足がよろめいた。  転ぶ寸前、誰かがうしろから悠舜と腕《うで》からこぼれおちかけた冊子を受け止めた。  悠舜が軽く仰向《あおむ》くと、久々に見る顔があった。 「黎深」  王の藍州行きの件で喧嘩《けんか》別れして以来だ。物凄《ものすご》く|不機嫌《ふきげん》な顔をしていたが、悠舜が以前と変わらずノンキに呼びかけたからか、ほんの少しだけ、黎深の刺々《とげとげ》しさが薄《うす》れたのがわかった。  黎深ほ悠舜が必要だった残りの冊子を本棚から正確に抜き出していき、ついでに悠舜の抱えていた冊子も|奪《うば》い、閲覧《えつ∴∵ん》者用の卓子《たくし》にドンと置いた。 「ありがとう、黎深。助かりました」 「……最後にもう一度だけいう。宰相位を降りろ」  悠舜は微笑んだ。どんなに会っていなくても、何も言わなくても、黎深ほ悠舜が必要な冊子がすぐにわかる。だから本当は、訊《き》かなくても黎深には悠舜の答えがわかっているはずだったの▼ 「いいえ。降りません。やることがありますから」黎深はぎろりと睨《にら》んだが、前のこように怒鳴《ごな》って出ていったりはしなかった。 「……楊修に、お前の肩《かた》でも拝《も》めと言われたからきただけだ」 「……拝んでくれるんですか」  悠舜が試しに|椅子《いす》に座ってみると、本当に黎深ほおそるおそる揉みはじめた。多分、生まれて初めて肩揉みをしているのだろうとわかるほど、ものすごい下手だった。加減しすぎてくすぐったかったが、悠舜はこらえて文句も言わないまま座っていた。 「吏部尚膏はやめるぞ」 「わかってます」 「紅州に帰るからな」 「わかってますよ」  うしろの黎深がまたムッとするのがわかった。 「……あとはお前たちで何とかしろ。絳攸もな」  悠舜は微笑んだ。そして、トン、と黎深の手を叩《たた》いた。黎深が肩拝みをやめて、離《はな》れた。 「ありがとう、黎深」  一つだけではない意味を込めて、悠舜は心から告げた。  黎深は一呼吸の沈黙《ちん・も71》の後、日を開いた。 「悠舜。お前が国試を受ける前、どこの誰で何をしてたか、教えろ」  悠舜は目を丸くした。まさかそんなことを訊かれるとは思わなかった。 「凌曇樹のヤツは知ってるようだった。私が知らないのは面白《おもしろ》くない」  悠舜は眉間《みけん》を押さえた。……凌卓樹。余計なことを。 「紅家の力で調べなかったんですか」 「なんでお前が目の前にいるのにそんなコソコソとまわりくどいことをせわはならん」  黎深らしいと悠舜は笑った。そういうところが、悠舜は好きだった。 「抹消《まつしょう》されていたでしょう。別に知るほどのことでもないということですよ」 「あの男は私に対して、よくお前と平然と付き合えるものだと抜かした」  黎深はまっすぐに悠舜を見据《みす》えた。 「紅家がお前に何かしたのか」 「いいえ、何も」  悠舜は平然としていて、それが|嘘《うそ》なのか本当なのか、黎深にはわからなかった。 「じゃあ、凌畳樹が知っていることを教えろ」 「いやですよ。教えません」 「理由をいえ」 「それはもちろん、知って欲しくないからです」  黎深は配りこんだ。……それはそうだ。黎深は悠舜の鵜に手を触れた。じっと見つめる。 「私は知りたい」  悠舜は微笑んだ。そうして黎深の指をそっと外し、会話の終わりを告げた。 「いいえ。あなたには関係のないことですよ、黎深。……百合姫によろしく」       ・器・翁・  リオウは絳攸の母だという百合が抱える琵琶《げわ》に反応した。   −琵琶。 「……もしかして、李絳攸と、馴染《なじ》みの深い曲を弾《ひ》けるか?」 「それはもう。子供の頃《ころ》から弾いてきたのよ。いくらでも弾くわ。息子のためですもの」  リオウは強く額《うなず》いた。耳で馴染んだ『音色』は、言葉よりもはるかに強力な武器になる。楸瑛の言葉や、楊修の言葉が、『道』を繋《つな》ぎやすくする以上に。  リオウほぐいと額の|汗《あせ》をぬぐった。−もう時間がない。絶対にやってみせる。 「頼《たの》む」  百合は牢の中に入った。  昏々《こんこん》と|眠《ねむ》る絳攸を見る。嬉《うれ》しそうに眼《め》を細める。会うのは本当に久しぶりだった。 「大きくなったわね……」  ごめんね、と呟く。  座り込み、絳攸の|前髪《まえがみ》をそっとかきやる。ずいぶんと疲労《ひろう》の色濃《いろこ》い顔だった。 「あなたに、黎深を任せっきりにして。……一人でたくさん頑張《がんぼ》って、疲《つか》れたでしょう」  百合は絳攸の頭をもちあげ、|膝《ひざ》に載せた。 「ねぇ緯倣……あなたには大切なものができたのね。黎深と選ぶのを迷うくらい」  迷って、どちらも選べなくて、どうしていいかわからないくらいに大切なものが。  百合は絳攸の掌《てのひらl》に握りしめられた�花菖蒲″に、日を和《なご》ませた。 「ごめんね経倣……私も黎深も、あなたにうまく伝えられなかった。私も黎深も、ちゃんとした家族を知らずに育ったから、お父さんとお母さんをうまくやれなかった」ぴくりと、絳攸の睫毛《まつげ》が震える。  百合は愛《いと》おしむように絳攸の髪《かみ》を指で杭《す》く。ずっしりと膝にかかる重みは、もう大人《おとな》のもの。  いつも百合たちは、下手《へた》を打って絳攸を傷つけてきた。 「……黎深があなたに李絳攸の名前をあげたときも」  |我慢《が まん》することが多かった締牧が、そのとき初めて百合の膝で泣いた。       ・薔・巻・  桜文鳥が、ピピッと噂《キ》いた。  気づけば経仮は、紅邸にきていた。  不意に、邸《やしき》の奥から懐《な1》かしい声が聞こえてきた。 「コウ……コウ、泣かないで」  絳攸が声を辿《たご》ると、百合の膝で、十歳ほどの少年が泣いていた。あれは。 (……俺だ)  コウはぐしゃぐしゃな顔で百合を見上げた。 「どうしてれいしん様は紅姓《せい》をくれなかったんでしょう。ぼくが、至らないからでしょうか。ぼくが何もできないで、役に立たないでいるから−」 「コウ! 何かしなくちゃいけないなんて、どうして思うの」 「……こ、ここに……置いてほしいんです」 「もう立派な私の|息子《むすこ 》よ。出てけなんて誰《だれ》も言わないわ」 「じゃあなんでくれた名前が李経倣なんて全然関係ない名前なんです!」 「ううっ」  目に見えて百合がひるんだ。  見ていた経倣のほうがバラバラした。 (む、苦の俺はこんなにずけずけ言いたい放題言ってたのか……!)  訊きたいことを直球で訊きまくっている。しかし是非《ぜけ》聞きたい。百合さんはいったい何て答えたのだろう。なんでこんな大切な|記憶《き おく》を覚えていなかったのだ自分。  百合はコウと向き合のた。 「……コウ、あのね、正直に言うわ」 「は、はい」 「いまだに私にも、あのアホンダラが何考えてるのかサッバリわからないの。またボク何か意味不明なことされちゃったヨまあトソデモ父だからしょうがないか〜程度に考えときなさい」本当に真っ正直に百合はズバリ言った。あまりの軽さに絳攸は絶句した。 (その程度の問題!?)  二十歳を超《こ》えてまでうじうじ悩《なや》みつづけ、果ては耶可様のもとにまでお悩み相談をLにいったあの日の自分はいったいなんだったのかー。  さすがに百合も軽すぎたと思ったらしく、ちょっと言いたした。 「……そうね、私が知っていることを言うと、黎深は紅姓に生まれたせいで、子供の頃《ころ》あんまりいい思いしなかったの。ほら、あのバカ、いつも紅家キライっていってるでしょ?」 「そういえば……兄上と幸せになれなかったとか兄上を追い出したとか兄上が�」 「そうそう。ほら、黎深が嫌《きら》ってる姓をもらうって考えると、むしろ嫌《いや》がらせじゃないの」 「……え、と、そ…うですね……?」なんだかよくわからないが納得《な一つと.、》しかけている少年時代の自分を複雑な想《おも》いで見守る緑倣。 「まあ大人になってもまだ紅姓がほしかったら、黎深か私に言いなさい。すぐあげるから」  聞いていた繚牧は|倒《たお》れそうになった。あげるって名門紅姓をそんな|呆気《あっけ 》なくー! (いや、ていうかこんな会話があったのか!?)  なぜ忘れていたのだろう。 「まあ、紅姓問題なんてしょせん微々《げげ》たる問題よ。いい、そんな連綿と惰性《だせい》でつなげてきた名字より、あの黎深が、夜中にちまちま辞書ひいてあなたの名前を考えた方がよっぽど衝撃だ《しょうげき》わ。私は目を疑ったわよ。なんか画数占《うらーな》いとかまでしてたし。ごめんねコウ、いくら画数よくても、父親が疫病神《やくげようがみ》じゃね。さして運気向かないかも。でも頑張って|一緒《いっしょ》に幸せになろうね」コウを抱《だ》きしめ、額と額をこつんとあわせる。  それを見て、絳攸はその感触《かんしょく》まで思いだした。そうだ−百合はいつもこうして絳攸をぎゅっと抱きしめてくれた。  このときの百合はまだ若くて、いまの絳攸とさして変わらない歳のはずだった。  あのころ、絳攸は二人を何もかも|完璧《かんぺき》な大人だと思っていたけれど。  ……今の絳攸に、同じことができるとは思えない。いまだに自分のことでグダグダ悩んでばかりで。黎深と百合に寄っかかってばかりで。 (どうして、俺は忘れていた……?) 「緯倣ね。いい名前だわ。姓なんかより、コウっていう音を残す方が大事だと思ったのね」 「え……?どうしてですか?」 「いつか誰かがあなたのためにつけてくれた名前だからよ。大事にする価値のあるものだわ。あなたに合ってる音だわ。漢字がわからないのが残念だけれど」  黎深が紅家の色をそっと入れたのは、他《はか》のどこでもなく、コウというその昔の場所。 「ねえ絳攸、黎深はあなたがもってた音をそのまま残して、新しい名前をつけたわ。何も変える必要なんてないの。何かする必要もない。あなたがもってるのは名前しかないって言うけれど、それで充分な《じゆうぷん》のよ。私たちほ、他には何もいらない。あなたがきてくれて、この家は明るくなったわ。あなたの笑顔《えがお》は、まるで光がさしたみたい。元気でいてくれたらいいの。笑っていてね。それだけ約束してくれたら、あとはあなたの好きに、自由に生きていいのよ」絳攸には、『コウ』に少し不審《ふしん》な色が差したのが見えた。  言ってる意味がわからない、と。  それを見た百合が、少し、切なげな顔をした。  その瞬間、《しゅんかん》飛んできた扇が《おうぎ》絳攸の後頭部をもろに直撃《ちよくげき》した。 「緯倣! またお前は百合とグダグダしてるのか。今度は何を悩んでるんだコドモ!」  百合が絳攸の頭をさすりながら、キッと黎深を睨《にら》んだ。 「なんてひどいことをするんだ。子供を|虐待《ぎゃくたい》するなんて、今度やったら離婚《りこ人》だよ! コウを連れて出てくからね! だいたい君が李姓《せい》なんてあげるから傷ついちやったんだろ! いくら李が好きだからって、国中右向いても左向いてもわらわらわいてでてくるよーなドコデモ姓つけるこたないだろ! もっとカッコいい姓にしてあげなよ! そう、倶利伽羅《ク.り▼ヤう》線紋とかさ!」ええー!?絳攸は真っ白になった。倶利伽羅経放って! しかし黎深はどこの部分に傷ついたものやら、ふいつとそっぽを向いて呟《 「lぷや》いた。 「……わかった。画数がよかったら変えてもいい」 「ちょ−待って!!」  異を唱えたのはコウだった。|蒼白《そうはく》である。当然だ。頑張れ俺。絳攸は|握《にぎ》り|拳《こぶし》をつくって少年時代の自分を応援《おうえ人》した。これから先の人生が変わってしまう。李経倣なんて問題にもならない。  だって倶利伽羅線紋はないだろう!  十年後、人生最大の命題のように悩むことを、少年の線紋は自ら積極的に受け入れた。 「ままま待ってください早まらないで! あのぼく李絳攸がいいです超《ちょう》気に入りました!! 」  百合は残念そうな顔をし、黎深は得意満面に戻《もど》った。 「え!…‥そう? 倶利伽羅絳攸になりたかったら、いつでも言ってね?」 「ホラ見ろ。お前は何もわかってないんだ」 「あっ、ごくたまに当たるとえばっちやつてさ。ふーんだ。そうだ。緯倣、一緒にお団子をつくって? 庭院《にわ》の萩《はぎ》が緯度《されい》に咲《さ》いたの。満月だから、お月見しましょう。黎深はススキ何本か引っこ抜《ぬ》いてきて。なんちやってススキと|間違《ま ちが》えないようにね。あと琵琶弾《げわけ》いてね」 「なぜ私がススキなど引っこ抜いてこなければならん!」 「今どきの男はススキくらい引っこ抜けないといい父親になれないんだよ。知らないの?」 「……そうなのか77−ソ。まあよかろう」  景色《けしき》が、変わる。  春の鴬、《うぐいす》夏の藤《ふじ》、秋のススキに冬の雪。  降りつもるように忘れていた思い出が蘇《よみがえ》る。  すべてを、そんな風に何気なく過ごしていたこと。  絳攸は天を仰《あお》いだ。涙が頬《なみだはお》を伝った。 「なぜ忘れてたかだと……?」  幸せな記憶が当たり前のようにあって。  もらった端《はな》から、また別の記憶が刻まれる。いくつもいくつもありすぎて、覚えされない。  大事なときにちゃんとくれた大事な言葉が、その狭間《はぎま》に紛《まぎ》れてしまうほどに。 『ねえ経倣、黎深はあなたがもってた昔をそのまま残して、新しい名前をつけたわ。何も変え  る必要なんてないの。何かする必要もない。あなたがもってるのは名前しかないって言うけれど、それで充分なのよ。私たちは、他には何もいらない。あなたがきてくれて、この家は明るくなったわ。あなたの笑顔は、まるで光がさしたみたい。元気でいてくれたらいいの。笑っていてね。それだけ約束してくれたら、あとはあなたの好きに、自由に生きていいのよ』あのころ、何一つ理解できなくて、戸惑《とまど》う感情だけを残してあとは沈《しず》んでしまった。  百合の少し悲しそうな顔も、つづくハチャメチャな日々に埋《.り》もれて。  |優《やさ》しい記憶にぬぐってもぬぐっても涙が止まらない。白文烏と桜文鳥がそっとすりより、ふわふわとした羽毛《−つも.り》が頬に当たった。  それでも、だめだった。優しさをもらえばもらうほど、逆に怖《こわ》くなった。  ……知っている。何気なく過ごす日々が、あんまりにも幸せすぎて、緑牧は心のどこかでますます不安になっていった。このかけがえのない場所をいつか失うことを思うと、怖くなった。  何も望まないと言うけれど、望んでくれたほうが楽だった。対価のない幸せは、雲をつかむもののように思えて仕方なかった。いつか霧《きり》のように掌《てのけlら》から消えてもおかしくないもの。  だから、あの言葉にすがったのだ。 『じゃあ経倣。私が帰るまで、この家と黎深をお願いね?』  百合が紅家の仕事であちこち飛び回りはじめるとき、何気なく繰牧に残した言葉。  百合が帰るまでは、この家と黎深の傍《そぼ》にいられる。 『なにかをしなくちゃならないなんて、どうして思うの』  ピピ、と文鳥が暗く。  墨《すみ》を流したように黒雲がたれこめ、やがて雨が降りはじめた。 (俺は知ってるんです、百合さん)  そんなことを言われるような人間じゃない。  だって俺は−。  ……琵琶《げわ》の音が、どこかから流れてきた。  白文鳥が日を開いた。それは鳴き声でもなければ、楸瑛の声でもなかった。 『ごめんね、緯倣……』  それは、ずっと会っていない、百合の声だった。       ・翁・線・ 「たくさんの失敗をしたわ」  百合は|膝枕《ひざまくら》をとくと、線紋のために琵琶を秦《かな》ではじめた。 「あなたにちゃんと伝わってないことがわかっていたのに、いつも茶化《ちやか》して、ごまかして、もうちょっと大人《おとな》になったらって。あなたに甘えて、黎深の|面倒《めんどう》を任せきりにしてしまったのも.、いけなかった。私がいちばんダメだった……」  ふるり、と絳攸の睡毛《まつげ》が震《ふる》える。 「経倣、愛してるわ。ごめんね。ちっともうまくやれなくて……」  自分たちに依存《いぞん》したままなのがわかっていても、黎深も百合もどうしていいかわからなかった。何をしても、失敗ばかり。とうとうこんなところまできてしまった。  絳攸の掌にある�花菖蒲《はなしようぷ》″を見つめる。  ごめんね、経倣。  今では、私たちがあなたの足伽《あしかせ》になってしまった。 「……ねえ緯倣、あなたはよく、望むことはありますか、つて訊《き》いたわね」  ちっともうまく言えなかった。他にどういう言い方をすればわかってもらえたのだろう。  いつからか、めっきりと日数が減ってしまった緯倣。  いくら望みを訊いても、何もしないでいいとしか言えなくて。でもあなたは|納得《なっとく》しなかった。  だから、訊かずにさぐって、私たちの望むようにあろうとした。 「|馬鹿《ばか》ね……、あと五十年くらい経《た》って、黎深と私がボケボケのおじーちゃんとおばーちゃんになったら、喜んで何でもしてもらうわ。でもね、いま、あなたの伽になりたくはないの」琵琶の音が、ゆるやかに牢《ろう》を巡《めぐ》る。 「ねぇ経倣……大切な人ができたんでしょう? さあ、起きて」  何もしないでいい。あなたが生きたいと思ったように生きて欲しい。  それを傍で見ているのが、百合の望み。  何もしなくても、牢に放《ほ、フ》りこまれても、ずっとそばにいてくれる人たちができて。会いにきてくれる人がいて。……その人のために、何かしたいと思ったのでしょう?  「あなたなら、黎深が何を望んでいるかわかるはずよ。あなたが気づいてくれなきゃ、黎深のやってることはまるきりムダで、馬鹿丸出《ぼかまるだ》しで終わりだわ。史実に意味不明なナゾのぐーたら吏部尚書がいましたって名前刻まれちゃうわ。……まあ事実だけど」これが、最後の機会。 「緯倣、黎深はあなたがくるのを、ずっとずっと待ってるのよ」  |大丈夫《だいじょうぶ》。何もしなくても、何かをしても、私たちはあなたを愛してるから。  あなたでないとできないことがあるのだから。  そのとき、階段を複数の足音が降りてくる音がした。  百合は顔を巡《めぐ》らせ、|微笑《ほほえ》んだ。ほら、あなたの大切な人たちがきたわ。 「経倣!」  百合は、真っ先にきた王を見て目を畦《みは》った。あの小さな子が大きくなったこと。 『緯倣、黎深はあなたがくるのを、ずっとずっと待ってるのよ』  絳攸は自文鳥を見つめた。……百合は確かにそういった。  黎深様が、俺を待っている?  ……止まっていた思考が、元のめまぐるしい速さで動き出す。  楊修の、百合の、言葉の意味を理解する。  自分がしなくてはならなかったこと。言わなければならなかったこと。  黎深が自分に何を望んでいたか。  馬鹿馬鹿《ぼかばか》しいほどあっけなく、答えが掌《てのひ・り》に落ちてきた。  次いで、びっしょり冷や汗をかいた。 (しまった�!! 本当に俺はバカだ!!何をノンキにこんなとこうろうろしてんだ!)  自文鳥と桜文鳥が、羽ばたいた。琵琶の聞こえるほうへ、まるで絳攸をいざなうように。  絳攸は全力疾走《しっモーフ》でそれを迫った。       ・翁・翁・  リオウは額に無数の玉の|汗《あせ》を結んだ。ダラダラと顎《あご》を伝い落ちる。  瑠花の力は強すぎる。ともすれば意識がふっとびそうになる。けれど今ここでただの文鳥に戻したら、元の木阿弥《も′1あみ》だ。リオウほ全神経を集中させ、絳攸を誘導した。日が汗でしみた。  リオウが『出口』を確保していなくては、絳攸は戻《もど》ってくることができない。  琵琶の音色とともに『道』がすごい勢いで整理されていく。そういえば、紅家の『琵琶』は藍家の『龍笛』、繚家の『二胡《にこ》』と並んで神事に使われたはずだった。『道を開く』は、、、チビキに通じる。巫女《みこ》になれるほど素晴らしい名手だった。それでも、リオウの負荷は大きい。 (くっ……もう少し……)  そして、琵琶の音色が、ふっと|途切《とぎ》れた。  絳攸は目を開けた。  ぼんやりと、少しだけ空を彷捏《き一よよ》い、のぞきこんでくるいくつものマヌケな顔を見た。  燕青を素通《すどお》りし、楸瑛を素通りし、王さえもフツーに素通りし、百合にはちょっとニコッとし、そして最後、秀麗を見た瞬間、《しゅんかん》求めているものを見つけたように佳嵩…が《しようてん》定まった。 「秀麗か……?」  しばらくしゃべってないので、かすれてうまく声が出なかった。  秀麗は感極《きわ》まって涙ながらに抱《だ》きつく−ことはせず、むんずと絳攸の襟《えり》をわしつかんだ。 「そうです経倣様!!現実です現実! 明けて欲しくなくても明けてしまう夜! |容赦《ようしゃ》なく厳しい明日がくる現実ですっ。ばへうと寝惚《ねぼ》けてないで、とっとと起きてください。時間がないんですっっ!! 経紋様なら、わかるでしょう? 御史大獄《たいごく》まであと五日もないんです!! 」くわっとものすごい形相で絳攸を一喝《いつかつ》する。相手が緯倣じゃなかったら、連続ピンクしても  起こしていたような勢いだ。  劉輝と楸瑛ほ心底ビピッた。なんて厳しいのだ秀麗!  百合だけがニコニコと|微笑《ほほえ》ましそうに見ていた。  そして絳攸は。  三拍《ばく》後−1現実を|認識《にんしき》した瞬間、絳攸はカッと目を極限まで見開いた。目玉に血管が浮《う》いている。バネ仕掛《じか》けのように凄《1.さ》まじい勢いで飛び起きた。 「あと五目だと!?」 「はいっっっ」 「まだ間に合うな! やるぞ秀麗‖‥徹夜《てつや》で行くぞ! 力を貸せ! −いや、貸してくれ」  立ち上がろうとして、よろめく。楸瑛が慌《あわ》てて腕《うで》を入れて支えた。  何日もろくに食べていなかった体は、ひどく衰弱《丁いじやく》していた。また|寝台《しんだい》に腰《こし》かけさせる。  絳攸は牒膜《もうろう》とする意識と、ひどい|目眩《め まい》を払《はら》うように、眉間《みけん》に力を込めた。  そして、オロオロと自分はどこの立ち位置にいようと慌てている王を見る。  |呆《あき》れ果てるほど、多くの迷惑《めいわく》をかけてしまった。  山ほど謝っても謝りされない。迫っつきやしない。でも、それはあとだ。 「……悪い。やることがある。全部終わったら、話そう。たくさん」  |掠《かす》れた声で、締牧は|呟《つぶや》いた。  劉輝は胸が詰《つ》まって、声が出なかった。絳攸のてらいのない笑顔《えがお》を見たのはー本当に、何  ヶ月ぶりだろうと、思った。それだけでいいと思っていたのに、欲が出る。 「秀麗……」 「わかってるわ。ギリギリだけどなんとかするわ」  秀麗は劉輝の両頬《りょうほは》をみょーんとモチのようにひっはった。 「してみせるわ。私は王の官吏よ。�ほら、笑って待ってなさい!」  秀麗は絳攸の前に脆《ひぎまず》いた。 「やるべきことは、この牢で全部しちゃいましょう。経紋様が起きたっていうの、絶対に知られない方がいいと思います」絳攸は笑った。 「……そうだな。頼《たの》む。任せる。計らってくれ。さすがにしばらく動けない」 「|了解《りょうかい》です。体にいいご飯、つくってじゃんじゃんもってきますね」  絳攸は苦笑いした。それは自嘲《‥レちょう》というのではなく、どこか晴れ晴れとしたものだった。 「……俺はお前の師にふさわしくなかったな」  秀麗は目を丸くした。次いで、そのやせて細くなった手をにぎった。 「それを決めるのは経倣様じゃなくて私です。私の師は経倣様一人きりです。他《はか》に誰《だれ》もいません。私のたった一人の師でいてくださいね。経紋様が必要なんです」絳攸は目を閉《ト】》じて、その快い言葉を聞いた。 「……ああ。俺にもお前が必要だ」  見ていた楸瑛はあんぐりと口を開けた。 (……なんだいこの画《え》に描《か》いたような愛の告白は)  愛は愛でもお互《たが》い清々《すがすが》しいまでの師弟《してい》愛なのがどこまでも笑える。  秀麗は腕まくりをした。時間がない。|戦闘《せんとう》態勢全l閲で行かないと間に合わない。  秀贋は百合と、百合が抱き起こしているリオウに駆《・乃》け寄った。  リオウは汗だくで気絶していた。 「大丈夫。この子は私が診るわ。やることがあるんでしょう。緯他の力になってあげてね」  今から自分がすることを思うと、胸が痛む。百合は秀庫の頬《はお》に手を添《そ》えた。 「しょげないの。いいのよ。そのためにしていたことなんだから」  秀麗はためらったあと、思い切っていってみた。 「百合……叔母《おば》様。ですよね?」 「あら、やっぱりばれちゃったのね。ええ。小さな頃《ころ》のあなたを知っているわ」 「全部終わったら、お話……させてもらってもいいですか?」 「ええ、もちろん」 「吏部尚書には、なんだか嫌《きら》われてるみたいで……一度もあってくれなかったんです。だから、叔母様が|優《やさ》しくしてくださって、とても嬉しいです」空気が|凍《こお》りついた。百合の笑顔もそのまま凍りついた。絳攸はいわずもがなだった。  秀貰一人だけが 「やるわよ!」と|拳《こぶし》を突き上げ、ずんずん階段をのぼっていったのだった。 (黎深……君ってヤツは……どこまでもお|馬鹿《ばか》なんだな……)  百合は黎深の勝手にどこまでも裏返りまくる愛情に心密《ひそ》かに漬《なみだ》したのだった。  ……四日後。  吏部尚書・紅黎深、解任−。  その報が朝廷を席捲《ちょうていせつ‖∵ん》するのは御史大獄が開かれる前日のことだった。     mm書書▼王の官吏 「�やってくれたな」  御史大夫室に呼びつけられた秀麗を待っていたのは、極寒の吹雪《ごつかん・いぷき》よりも冷たい皇毅と清雅の眼差《まなぎ》しだった。  皇毅は、飛び起きた絳攸と共に秀麗が|突貫《とっかん》で作成した、紅黎深の吏部尚書解任請求《せいさ怜う》用の陳《ちん》述《じゅつ》書の束を放《ほう》り投げた。 「この私の許可もとらず、直接王と尚書令に奏上するとはな」  秀麗はぐっと足を踏《ふ》みしめた。ともすればこのド迫力の超《はくりよくちょう》低音に吹き飛ばされそうだ。 「れっきとした正規の手順です。やましいことはしてません」  御史台の官吏には、御史台長官の許可をとらずとも、直接王や尚書令に弾劾《だんがい》請求を申し入れられる権限がある。御史大夫やその他、大権を持つ官吏の不正を追及《ついきゅう》する場合など、手順を踏んでいる間に横から拝《一り》み消されないために、直で王に奏上することが許される。  秀麗は、紅黎深の解任要請を皇毅にも誰にもいわずに直接劉輝と悠舜に渡《わた》した。  そして御史台を《へ》経ることなく、王が吏部尚書の解任を断行したのだった。 「−吏部尚書の件は、清雅が先に調べていた。お前が急がずとも、遅《おそ》かれ早かれ手をつけていた件だ。なぜ私に何も言わずに先走った?」皇毅の目は、よくよく見れば|怒《おこ》ってはいなかった。  秀麗がなんと答えるのか、陣毛《まつげ》の動きさえ見逃《みのが》さないとでもいうような、注意深い双膵《そうぼう》。 「……思うところがありまして」 「ほぉ〜カナブソ御史が思うところとはな。言ってみろ」 「いえ。カナブソ御史の思うところなんて、葵長官のお耳に入れるほどのことじゃないです」 「言いづらいか。なら特別に内緒話《ないしょぼなし》を許可する」人さし指でちょいちょいとくるように指示される。秀麗は後じさった。  葵長官とコショコショ内緒話なんて、想像するだに怖《こわ》すぎる−。 「い、嫌《いや》です」 「まったく、ことごとくお前は私に刃向《はむ》かうな」  秀脛は皇毅を見つめた。 「刃向かってません。遅かれ早かれ手をつける件を、私が早回しにしただけです。……何か、私のしたことで長官の意に添わないものがありましたか」  皇毅の薄《うす》い双陣がスッと細められる。同時に、唇が微笑《くちげるlげしょう》を刻んだ。 「……ない。お前の手柄だ。よくやった。ご苦労」  秀麗は目を願った。……秀欝に対するまぎれもない貯め言葉だ。嬉しいと、思った。 「次は吏部侍即だ。お前が手がけた案件だ。しっかり追い落とせ」  嫌味《いやみ》を忘れないのが葵皇毅だ。 「…………………………はい」  ボソツと呟いた返事に、一瞬だ《いつしゅん》け皇毅は意表をつかれたような顔をした。次いで笑《え》む。 「紅秀麗」  思いがけなく名を呼ばれ、秀輝は目を丸くした。 「最初に、私はお前に訊《き》いたな。政治家と官僚の違《かんりようちが》いは何か、わかるかと」 「……はい」 「もう期限だ。答えを言ってみろ」  秀麗は、ポッポッと答えをいった。  皇毅は無表情のまま、最後まできいた。当たっているとも間違っているともいわなかった。  ただ、こういった。 「では、李絳攸の処遇《しょぐう》もどうするべきかわかっているな。−下がれ」  秀麗は反論せず、一礼して室《へや》を下がった。  徹夜《てつや》続きでヨロヨ? していた秀麗は、眼前に幽霊《ゆうれい》のようにやせこけた師匠《ししょう》が|壁《かべ》に寄りかかって待っているのを発見した。カッコつけてるのではなく、単純に体力と筋力がないからなのは  誰の目にも明らかだった。むしろ死んでないのがおかしいくらいの幽鬼《ゆうき》っぷりだ。でもきっと自分も同じ姿をしているに違いない。 「緑倣様」  二人は並んでよたよた歩き出した。 「今回は、本当に助かった。お前がいなくては間に合わなかったかもしれん」  秀麗は愴然《しようぜん》とうつむいた。  絳攸の吏部侍郎罷免請求を覆《けめんせいき紬う′うがえ》すのは、もはや不可能なところまできていた。それには、この半年があまりに痛すぎた。けれど吏部侍即は救えなくても、 「李緯倣」を瀬戸際《せとぎわ》ですくいあげる方法は一つだけ残っていた。  経仮が吏部で誰よりも仕事をしていたのにもかかわらず、『不適格』と見なされたのは、ひとえにいちばん重要な職責を果たせないできたからだ。上司である紅黎探を諫《l■さ》め、その官位に不適当だと見なせばしかるべき対応をとる。それができない官吏として罷免請求を出された。  もともと絳攸は有能実直で、官吏としての実績もある。ことの元凶が《げんさよう》紅黎深なのも、絳攸が黎深のためにさんざん苦労してきたのも周知の事実だ。だからこそ、黎深を緯倣自身の手で糾《きゅう》弾《だん》することがでされば、最後の職責を果たしたとして退官を回避《かいけ》できる可能性があった。  それが絳攸を官吏として残す《ヽ1ヽヽヽヽヽ》ことができるたった一つの抜《ぬ》け道。  とはいえ、葵皇毅は罷免だけではなく、絳攸の退官を狙《ねら》っていた。秀膵と絳攸が御史大獄で何を言おうが、最終権限をもつ葵皇毅はあっさり握りつぶすに決まっている。  だからこそ、御史大獄が開かれる前までが勝負だった。なんとか証拠《しよ・リ.)》をそろえて長官を飛び越《._−》えて一足飛びに劉輝までもちこめば、いくら葵皇毅でも手を出すことができない。  黎深と絳攸を二人とも残すのは無理でも、せめて緯倣だけでも残すなら、それしかない。  それしかなかったとは思うけれど。  結果的に、絳攸が自分の手で養父を切り捨てることになったのは事実だ。  絳攸は秀麿のひどく落ちこんだ顔を見て、苦笑いした。気にするな、と癌を叩いた。 「……もっと早く、こうするべきだったんだ」  絳攸は黎深を一人の大官としてみて、ふさわしいか否《いな》かを常にはかるべきだったのだ。そして、ふさわしくないと思えば、それなりの対応をしなくてはならなかった。  絳攸が黎深の副官になる前、あちこちの役所で、上司でも迷わず糾弾《きゅうだん》してきたように。  けれど、黎深にはそれができなかった。  ……楊修の言葉は正しかった。  絳攸は、吏部侍郎ではなかった。ただの黎深の養い子、お守《一り》り役でしかあれなかった。公私を分けて接することが出来なかった。  官僚としてなら、絳攸は誰《だll》よりも|優秀《ゆうしゅう》であれる。  歯車の中で求められる仕事をこなすだけなら、国のことを考えなくても誰にも迷惑《めいわく》をかけない。けれど高官になると政治家も兼《わ》ねる。吏部侍邸の大権は、|充分《じゅうぶん》それに相当するものだった。  それには政治に携わる者として自分なりの信念が必要だった。 「俺にはそれがなかった。家で黎深様を諫《いさ》めるのと同じ感覚のまま、ただちゃんと仕事をすることしか考えなかった。……吏部侍郎ではない」それが、絳攸に|唯一《ゆいいつ》足りなかったもの。  黎深の意図にも気づかず、半年も無為にした。思えば本当に馬鹿なことをした。  絳攸は隣《となり》を歩く秀麗の頭を、ポソとなでた。 「だから、遠慮《えんりょ》なくやれ。お前のクビと引き替《か》えにはできん」  秀麗はちょっとうつむき、そして、領《うなず》いた。 「はい」  絳攸はそのまま秀麗の頭を引き寄せ、ポソボソと続けた。 「罷免《けめん》、謹慎《さ人しん》処分程度で済ませろよ。免官だと官吏をやめなきゃならんから具合が悪い」 「はい」  吏部侍即は罷免されても、官吏であれば、また一から上にあがればいいだけだ。  今度の絳攸は黎深のためではなく、王のために。       ・翁・巻・  清雅とふたりきりになると、皇毅は頬杖《ほおづえ》をついた。 「当てが外れたな、清雅」 「ええ。あの紅黎深の金魚のフソが、まさかギリギリで養父を自分で糾弾するくらいまで自立するとは思いませんでした。……李絳攸の処断は〜」 「吏部侍郎位は当然解任だが、降格・謹慎処分程度か。クビは無理だな。上司の吏部尚書を糾弾したことで、最後の責任はギリギリで果たしたことになるからな。それさえなければ、もろともにクビにできたが。それも狙《ねら》って、あの娘《むすめ》はお前より先に弾劾《だんがい》に踏み切ったんだろう」清雅は|眉《まゆ》を翠《ひそ》めた。面白《おもしろ》くない。 「一度でも紅黎深が李絳攸のもとを|訪《おとず》れてればその時点で二人のクビは確定できたんですけどね。何らかの口裏合わせがあったと見なして、李絳攸のいかなる陳述書にも|疑惑《ぎ わく》ありとかってイチャモソつけて疑義を提出して無効にできたんですが……」一度もこなかった上に、常に尚書宴に陣取《じんご》って無意味に存在を主張した。どこまでも李絳攸など何の関心もないという態度を|貫《つらぬ》いた。おかげで、傍目《はため》からは、吏部尚書の尻《しり》ぬぐいに|奔走《ほんそう》したあげく、無情に切り捨てられたため、李絳攸がついに自分の手で上司の始末をつけることを決意�という断絶にしか映らなかった。 「相手は紅黎深だ。|馬鹿《ばか》じゃない」 「いや、|充分《じゅうぶん》馬鹿だと思いますけどね」 「……まあ、ある意味底抜《そこぬ》けの馬鹿だがな。二人ともな」  李絳攸が吏部侍郎としてすべきだったのは、仕事をまったくしない紅黎深の肩代《かたが》わりをえんえんつづけるのでほなく、早々に紅黎深の問責を提出し、上司を糾弾することだった。  けれど、半年経《た》っても李経倣はただ積まれていく仕事を片づけていくだけだった。 「葵長官のほうが紅秀腱のせいでだいぶもくろみが外れたんじゃないですか」 「まあ、半分はな。あのままならうまくいくと思ったんだが。まあいい。紅黎深を朝廷《らようてい》から追い出したことには変わらん。これで紅家も朝廷から切り捨てた。季締仮も降格処分。ついでに紅姓《せい》官吏も当主を罷免されたことで王に不満をもちはじめるだろう。収穫が《し時うか′1》あったのにはかありない」むしろ後手後手に回って防戦一方なのは王側だ。紅秀麗がいなくてはどうなっていたことか。       ・器・器・ 「ギリギリでしたね」  悠舜は羽扇《うせん》をもちかえた。曲芸のような綱渡《.り写わた》りだったが−。 「なんとか……拾えました。こればかりは経倣殿次第《しだい》だったのでバラバラしましたが」  退官か否かは絳攸が起きなくてはまったく意味がない。さらに絳攸の決断と、劉輝と秀麗それぞれの行動すべてが時機を逃《のが》さず御史大獄までにすべりこまねはならなかった。  それでも結果として、吏部尚書と吏部侍即があいた。まさに最悪とさほど変わらない。 「……悠舜……紅尚書は、本当になんともならなかったのか。こうするしかなかったのか」  悠舜ほ瞳を伏《ひとみふ》せた。そういうのは無理もなかった。落ちるはずのない一角が落ちた。 「……主上、貴族派の今回の本当の狙いはなんだったと思われますか? L 「え?紅黎深と、経倣だろう?余の……側近だったから……」 「いいえ、厳密には、そのどちらでもありません。いってしまえば、その二人は貴族派にとってはさほど脅威《きょうい》ではありません。緯倣殿は|優秀《ゆうしゅう》な能吏ですが、『李経倣』個人として使える力は限られます。黎深ほ紅家当主ですが、国政にまるで関心がありません。主上の味方になり、ちゃくちゃく仕事をし、貴族派の|邪魔《じゃま 》だてをしようなどとトンと思うわけがありません」きっぱりと悠舜は言ってのけた。だが、劉輝は悠舜に懐《なつ》いている黎深を思い出した。 「……悠舜殿が余の尚書令になったから、しぶしぶでも力を貸し……」 「てくれなかったでしょう。ちっとも」 「……うーむ。確かにぜんぜん」  むしろ一切合切仕事をしなくなった。  悠舜は黎深のいくたびもの『|宰相《さいしょう》を辞めろ』という言葉を思い返した。……悠舜を思ってくれていても、輔佐《はさ》をする、という形ではないのだ。悠舜を政事から引き離《はな》すほうに行く。  黎深の性格を思えば嬉《うれ》しかったけれど、……それではだめなのだ。 「……そうか。貴族派にとっては別に黎深殿は脅威ではない……?」 「はい。ですが、絶対に落としたい相手だったからこそ、最初に切り崩《くず》してきたのです」  悠舜ほ|溜息《ためいき》とともに陣毛《まつげ》を降ろした。黎藻の性格や地位ともなんら関係ない。 「狙いは『紅家』です」 「……紅家?」 「主上は今まで、だいぶ紅家の力をかりてこられましたし、周りに紅姓官吏も多い。藍姓官吏不在の中、いま朝廷《ち上でってい》でいちばん|影響《えいきょう》力があり、なおかつ主上に好意的なのが紅姓官吏です。ですが、紅家当主である黎深を解任すれば��」察した劉輝はみるみる顔を強張らせた。好意が掌を返したように翻《ひるがえ》るのもおかしくない。 「……紅姓官吏は誇《はこ》り高い。以前も黎深のために貴陽の機能を半分停止したくらいだ」 「ええ。藍将軍の時とは違《ちが》います。朝廷には紅家傘下《さんか》の官吏も多くおります。実際、黎深が朝廷を出れば、政事における紅一族の影響力は半減するはずです」黎深を御史台に任せず、直々に直接処分したのは劉輝だ。 「……もし、処分を御史台に任せていたら−いや、だめか」  ただみすみす更迭《こうてつ》を見ているだけで、王は黎深を守ることもしなかったと怒《おこ》るのが目に見えている。最終的に罷免の判子を押すのは劉輝なのだから。しかもその場合絳攸も退官になる。 「では、是《ぜ》が非でも余が守って留任させていたら−」 「……今度は貴族派が、紅家を守るために法を曲げて権力を濫用《らんよう》したと、ますます主上への反感を強めるだけになるでしょうね」                                      さい  ふどう転んでもいい目がでないように賽を振《▼》られている。  すべてが後手後手に回っている。最悪の最善しか選べていない。  悠舜は劉輝の衷情を見て、束の間、何かを思うように口を喋《つぐ》んだ。 「……主上、お|間違《ま ちが》えにならないように。紅家当主が罷免されたから《ヽヽヽヽヽヽ1ヽヽヽヽヽ》紅姓官吏が王に不満をもつ、というほうがおかしいのです。紅一族である前に、朝廷では一官吏であるべきです。紅家の動向次第で法を曲げ、政事を左右するのはいけません。それではいつまでたっても王位争いのときのように、彩七家で政事が揺《ゆ》れることになります」その通りだった。しかしそれは『紅家』の力をそぐという貴族派の狙いと結果的に同じことを意味するのではないかと思った。それでは、悠舜と葵皇毅の考えは同じということになる。  不意に、旺李が真夜中に悠舜の室《へや》から出てきたことを思い出す。蜃樹の言葉も。 (……悠舜……?)  劉輝の心がすうっと冷えた。 「……紅姓官吏については、何らかの手は打たねばならないでしょう」 「……悠舜殿」 「はい?」  さっき感じた底冷えのするような不安。もしかしたらもっといい方法を悠舜なら知っていたのではないだろうか? 黎深と絳攸を残したまま、何とかできたのではないか? そう聞きたかった。  ……けれど、悠舜を|宰相《さいしょう》にしたのは自分だ。劉輝は不安を喉《のど》の奥におしこめた。  その言葉を、自分が信じられなくてどうする。 「いいや。……頼《たの・》む」  悠舜は 「はい」と|微笑《ほほえ》んだ。       ・巻・歯・  絳攸と別れ、御史室に戻った秀麗に、燕青がお茶を注《つ》いでくれた。  秀麗は突っ伏したまま、顔を上げなかった。それは疲労《けろう、》のせいだけでもなかった。 「姫《ひめ》さん、葵長官のこと、どう思ってる?」 「…………口も性格も悪い上司。すごい厳しいし。なんか悪いこといっぱいしてそうな感じ」 「でも、嫌《l、・り》いじゃないんだろ」 「……なんでわかるの?」 「姫さん、茶州にいたときより、や《ヽ》わ《ヽ》ら《ヽ》か《ヽ》く《ヽ》なったからさ。あの頃《ころ》より、いろんな考えを受け入れるようになっただろ。タンタンとかセーガ君とか、葵長官のおかげだろ?」束《つか》の間、秀庫は答えるかわりに、無言でお茶をすすった。 「姫さんの『正義』は、強くてまっすぐだった。わかりやすくて、誰《だーl》も反論できない。だから自分の信じる正しいことを貫くためなら、何《ヽ》を《ヽ》し《ヽ》て《ヽ》も《ヽ》い《ヽ》い《ヽ》ってどこかで思ってたろ?」 「……うん。思ってた」贋作《がんきく》の時に、一人で権限もなしに勝手に動いて、清雅の仕事を台無しにしかけた。  そうして、自分のことだけ考えて、蘇芳に彼の父親を牢《ろーワ》に入れさせてしまった。  今なら−きっともっと、いろいろなことを考えた。もっとうまくやれたと、思う。  燕青だったら、同じことは絶対しなかったろう。別な方法で、別な結果を出したと思う。  それが何かは、秀麗にはまだわからないけれど。  少なくとも自《ヽ》分《ヽ》の《ヽ》な《ヽ》か《ヽ》だ《ヽ》け《ヽ》の《ヽ》正《ヽ》義《ヽ》だったことは、わかる。 「それは一歩|間違《ま ちが》えれば危険な考えだったって、今の姫さんはわかってる。最初から自分は正しいから何をしてもいいなんて思うのは、単なる独りよがりの徴慢《ごうま人》だ。まっすぐな正義を振《ふ》り回せば、弱い誰かを傷つけちまうこともある。それが権力を持つ官吏なら、なおさらな」 「……うん」 「気づかせてくれたのは、葵長官だろ」秀庫は目を閉じて、額《うなず》いた。  葵皇毅が、頭から秀欝を否定して、甘いと鼻でせせら笑い、全然認めなかった。  単なる現実を否応《いやおう》なくつきつけて、頭の中だけの理想になんの意味もないことを知らしめた。  だから、秀麗は考えるようになった。  この一筋縄《けとすじなわ》ではいかない冷たい現実のなかで、自分の正義と理想を|貫《つらぬ》ける方法を。  清雅と同じ結果を、違う道でだすために。  その先には、確かに葵皇毅がいたのだ。 「燕青、私ね、いつか絶対葵長官にぎゃふんて言わせてやるって、心のどこかで思ってたわ」 「……。ああウソ、野望はでかい方がいいよな!」  あの葵皇毅がぎゃふんと言ったら、絶対史官に話して史実に残そうと燕青はもくろんだ。 「あの人が正しいとは言えない。わかりやすい正義の持ち主じゃないんだもの。散々私をくそみそにけなしまくるし毎度毎度小|馬鹿《ばか》にされて。でも−それは全部正しかったの」正しかった。だから秀麗は、葵皇毅が間違っているといえなくなった。  世界には秀麗がまだ知らない『正義』がたくさんある。  多分葵長官は、その一つをもっているのだろうと思う。  それがたとえ秀麗には受け入れられなくても、知ろうと思った。 「きや〜ステキ超《ちょう》尊敬とか、あの人の配下でよかったとか誇《ほこ》りに思うりとか、はっきりいって全然思ったことないわ。皮肉か嫌味《いやみ》しか言われたことないし。なんか事件を握りつぶしまくってるっぽいし。あれやるなこれやるな、お前は|邪魔《じゃま 》だとか邪険にされてぽっかりだし」 「……あからさまにすげぇ悪者っぽいな……」 「でしょ。……尊敬してるとか、言えない。言ってることもやってることも、すんなり認めることはできない。でも、すごい人だって、心のどこかで思ってる」秀麗は顎《あご》を震《ふる》わせた。瞑目《めいもく》し、|溜息《ためいき》と|一緒《いっしょ》についに本音を吐《よ》きだした。そう、だから。 「……葵長官に認められたいと思ったわ」  認められなくて、てんで馬鹿にされて、ものすごく悔《くや》しいと思った。  自分にとって、すでに彼はそういう存在になっているのだと、気づいている。  尊敬したくないだけで、積極的にさがせば、多分心の隅《すみ》っこに、その言葉のカケラくらいは、  転がってるかもしれない。でも、うっかり発掘《‥りl∴く二》してしまったら、厄介《吏l′! 九∵し》なことになるかもしれないから、今の秀麗は探さない。  あの人の正義がどこにあるか、ちゃんと確かめて、それを心から正しいと思うまでは。  まだ秀麗は、葵皇毅を認められない。 「姫さん、御史は官吏の不正を乱《ただ》すのが仕事なんだよな?」 「……そうよ」 「じゃあ、同じ御史の不正は誰が暴《あぼ》く〜」 「……同じ、御史が」 「じゃあ、長官の御史大夫の不正は〜」  秀麗は目を閉《と》じた。……本当に、燕青は|容赦《ようしゃ》がない。 「私たち、御史の仕事よ。いちばん下っ紺《∫》の監察《かんさつ》御史でも、単独で宰相さえ糾弾《さゆうだん》できる権限があるの。歴代、長官の不正は……配下の御史たちが糾弾してきたわ」葵皇毅が、何かを目論《もくろ》んでいるのかどうかはわからない。  ただ、彼が秀麗の行動を把握《はあく》し、制限しているのは確かだ。  塩も、贋金《にせがね》も、兵部侍郎殺しも、官吏殺しの件も、何もかも|中途《ちゅうと》半端《はんぱ》なままで終わらせられていたことに今さら気づき、|呆然《ぼうぜん》とした。すべて、捜査《そうき》を|途中《とちゅう》で止めてきたのは皇毅だ。そして次々と別の仕事をあてがい、|忙殺《ぼうさつ》させて、いつのまにかうやむやになっていく。  秀麗には、彼が何を考えているかなど、情けないがさっぱりわからないけれど。 「……ね、燕青。御史台官って、朝廷《ちょうてい》の中でどんな風に形容されてるか、知ってる?」 「知らん。なんていうんだ?」  それは、秀庫の好きな言葉だった。溜息のように唇か《くちげる》らこぼれおちる。 「−『王の官吏』」  すべては、主君である王と、民《たみ》を守るために与《あた》えられた力。  司馬迅を『生かした』のは、孫陵王か旺李のどちらか。その司馬迅は楸瑛を王の傍《そげ》から引き離し、『牢《ろう》の中の幽霊《ゆうれい》』もつくりだしていた。『牢の中の幽霊』は『兵部侍郎』の兇手《きょうしゅ》として十三姫と秀魔を|襲《おそ》った。『兵部侍郎』は『官吏殺し』に関わった。司馬迅を追えば『繚家』が劉輝を社に監禁《かんき人》していた。つながっているのだ。けれど、それを繋《つな》がせまいとするかのように、葵皇毅は次々と切断してきた。  そしてかつて贋金と塩の件で、どこかに消えた大量の金の行方《ゆくえ》もしれないまま。  今、秀麗と燕青が合間を見つけて、調べている人事のことも。  ……皇毅を認めている。もしかしたら尊敬しかけてさえいるかもしれない。  間違っていると思っても、何一つ抗弁《こうペん》しきれた例《ため》Lもない。何が間違っていると言われても、きっと|黙《だま》るしかない。皇毅の前では、自分が無知で、もの知らずで、小さな世界で自己満足な理想を振りかざすだけのちっぽけな存在だと、いつも思い知らされるばかりだ。  だから、ぶぅぶぅ文句を垂れながら、怒《おこ》られて馬鹿にされて嫌味も非難も雨あられと降らせられてでも、嫌《いや》だとは思わないのかもしれない。もっとたくさんのものを学びたいと思ってる由  ーけれど、それ以上に譲《紬ず》れないものがある。  御史は王の官吏。その願いを叶《かな》えるためにある。  たとえ相手が葵皇毅でも、退くわけにはいかない。  秀麗が官吏として認められたいと初めて思った人でも。  ……藍州に行くとき、皇毅は言っていたのだ。 『ここらで紅藍両家をしめておきたいからな』  あの段階で、紅《ヽ》藍《ヽ》両《ヽ》家《ヽ》と、彼はすでに言いきっていたのだから。     ■書書書▼  劉輝はその日、約束どおり悠舜と静蘭を伴い、仙洞省を訪れた。  仙洞令畢宴をあけると、羽羽の他《ほか》に、リオウもいた。  劉輝はバッと顔を明るくさせた。|倒《たお》れたときは心配したが、だいぶ顔色がよくなっている。 「リオウ、絳攸の件では本当に礼を言う」 「……別に」  リオウはボソッと|呟《つぶや》いた。  羽羽は背の高い劉輝を、もこもこの髭《けげ》を仰向《あおむ》かせて、見上げた。 「……それでは主上、《しゅじょう》玉座に関することについて、今までお話ししていなかったことを、お伝えいたしまする。特に、王家と繚家につきまして」  劉輝は顔つきを引き締《し》めた。  藍州で、瑠花にいわれたことがある。 『ふむ。羽羽はいっておらなんだか。|即位《そくい 》の折に、|普通《ふ つう》は伝えるものなんじゃがの。よほどそ  なたが不甲斐《.赤がい》なく見えたか』  碧家の神鏡のように、劉輝が知らないことは山ほどあるはずだった。なぜ今までいわなかったーなどとは劉輝はいわなかった。瑠花の言葉が、きっとすべてだ。  でも、それを羽羽は伝えようとしてくれている。 「聞こう」  はい、と羽羽は領《うなず》いた。どこから話そうか、真っ白な髭を指先ですきながら考える。 「標家と仙洞省が、王位継承《けいしょう》権や、即位の儀《ぎ》、主上の婚姻《こんし.ん》などに、特別に日を挟《はき》めることはご存じですね。簡単にいえば、玉座や血の継承全般《ぜんばん》に大きな権限を許されておりまする」 「ああ」 「|滅多《めった 》にあることではないのですが、ある条件を満たした場合に限り、標家と仙洞省には抜きんでて大きな権限が発生することがあります。簡潔にいえば、王家の継承問題に異状があると見なせば、繚家と仙洞省は王位継承権と後宮問題に直接介入《かいに抽う》できるのです」劉輝には寝耳《ねみみ》に水のことだった。 「そんなこと、聞いたこともないぞ……?」 「歴代、ほとんど例のないことですゆえ……。継承問題に異状あり、という条件を満たすのが難しいのです。厳密に言えば、『蒼玄王の血が絶える可能性がある』ということです。そのような|状況《じょうきょう》は滅多にございませぬ。たとえ時の王に御子《みこ》がおらずとも、たいがいは紫家の名を冠《かん》する兄弟親族が他にも残っておるもの。勧告《かんこく》程度で、標家も仙洞省もその権利を行使することはできません。が……」  血の覇王《はおう》と呼ばれた先王。暗黒期と呼ばれた混沌《こんとん》の大業年間に終止符《しゅうしふ》を打つかわりー。 「……父は、継承権を持つ者を片っ端《ぱし》から排除《はいじょ》して王位についたからな……」 「はい。また王位争いのおり、公子たちも主上を残して皆《みな》ことごとくご処断なきり、第二公子も流罪《るぎい》。紫家の名を冠するのほ今や主上お一人になり申した。勿論《もちろん》、戦時など、例外措置《そち》はございますが、現状は平時。このままでは標家が玉座の是非《ぜひ》に介入できる権利が生じます」悠舜は注意深く訊いた。今の話には、見過ごせない点があった。 「羽羽殿、玉座の是非を問える、とは? まさか王自身を左右できるのですか?」 「……最終的には。……たとえば、妃でなく王に子種がない場合もございます。もしくは、つくるお気持ちがないと判断されればー蒼玄王の血を残せぬ男は不要と見なし、玉座の交代を指示できるのです」不要。劉輝は顔を引きつらせた。 「……楸瑛が聞いたらひどい言い種とか言いそうだな……」 「ひどくないだろ」  ポソツと呟いたのはリオウだった。 「立場が逆になっただけだろ。妃に子がなければ他に妾妃《しようひ》を迎《むか》えるのはよくて、子種がない王が不要で用済み扱《あつか》いなのはひどいってなんだ。男はよくて女はだめなのかよ。公平に欠ける」羽羽は苦笑いした。どちらの世界も知っている繚家の男だから言える言葉だ。 「つまり、このままでは、標家によって玉座の交代が示唆《しさ》される可能性が高いのです。仙洞省も、それをつっはねるわけには参りません」悠舜は眉根を寄せた。以前、羽羽から複数の王位継承者が残っているとは聞いたが−1。 「玉座の交代といっても、そう簡単にできるものなのですか?」 「紫家の名を冠していないだけで、血統的に問題ない者は幾人《いくにん》か残っております。何よりー」羽羽はちらりとリオウを見た。リオウは乱暴に頑をかき混ぜた。 「−繚家《うち》だ」 「リオウ?」 「蒼玄王の血をわけた妹・蒼遥姫《そうようき》を始祖にもつ繚家は、|唯一《ゆいいつ》火急時の代替《だいたい》王家たりえる。今までも緊急避難《きんきゅうひなん》的に繚家から王を輩出《はいしゅつ》してきたことはある」劉輝は王家と繚家は硬貨《こうか》の裏と表のようなものだと言った瑠花の言葉を思い出す。  ……あれは、こういうことだったのだ。 「繚家が女を大事にし、子供を産んで血を継《つ》ぐことを第一に考えるのは、異能の問題もあるが、王位継承者を絶やさないためでもある。伯母上《おぼうえ》いわく『王家は始終戦《いくき》をし、統治より戦時の期間のほうが長く、公子は書物より先にチャンバラごっこじゃ。なんで良き王が育つものか。自ら滅《はろ》びたがってるとしか思えぬわ。ちっとも進歩せぬ』。伯母上が男と王家をバカにする理由」劉輝はふと謎《なぞ》がひとつとけた気がした。 「……リオウ……もしや繚家では、子供の頃《ころ》から学問や政事を学ばせられるのか?」 「ん? ああ。当然だろ。いざというときは王になる可能性があるんだ。男女ともにガキの頃から古今東西の書物を山のように叩《たた》き込まれる。仙洞令君も標家の仕事だからな。いつ着任要《よ・ツ》請《せい》がきても仕事をこなせるように仕込まれる」羽羽も頷いた。それは標一門として誇《はこ》れることの一つだった。 「はい。特に瑠花姫は学問を非常に重視し、奨励《しようれい》してきましたからな。おそらく最も学究、技術が進んでいる場所です。瑠花姫は男性に手厳しい方ですが、学問、技術、知識の継承に関しては、広く門戸を開き、男性の進出も奨励しております。リオウ殿をご覧になればおわかりでしょう。このお歳にて仙洞令君の仕事も問題なくこなしていらっしゃる」劉輝は頷いたが、言葉にはできなかった。陣毛《まつげ》が震《ふる》えた。  リオウはいともたやすく『当然』といってのけた。 「王家が表の政事を司《つかさご》り、絆家が裏の神事を司る。どちらが欠けても成り立ちませぬ。ですがこのままでは……また玉座と後宮問題、そして繚家を巡《めぐ》り、各家の思惑《おもわく》が入り乱れましょう。公子争いのように、再び民《たみ》が置き去りにされかねませぬ。どうか、それだけは−」  羽羽は両手を組み、深々と劉輝に頭を下げた。 「主上、仙洞省……いえ、わたくしの要請は、どうか早期の婚姻を。それまでは、わたくLが主上の楯《たて》となり、守ることができます。けれどこのままでは、わたくLに繚家も仙洞省もおさえる権限はなくなります」 「……そうか、羽羽殿……仙洞官からも、余に対する不満が出ていたのだな」  それらを、羽羽がずっと一人で抑《おき》えてくれていたのだ。劉輝に気づかせることなく。 「……王には王の果たすべき仕事があるように、仙洞官にも課せられた役目がござりまする」 「わかっている。いやだいやだとしか言わずに、ただ逃《に》げ回っていたのは、余だ」ただ一人の少女と引き替《か》えに。  ややあって、劉輝は羽羽を見た。そして悠舜と、兄を。 「……ちゃんと、考える」  劉輝は何度か目を閉《レー》じ、そしてようやく口をひらいた。 「瑠花殿は……余を認めぬといった。何をしても、もう遅《おそ》いのだろうか」  答えたのはリオウではなく、羽羽だった。 「主上、お|間違《ま ちが》えなきよう。大姫の……増花様の意思が繚家の意思ではございませぬ。また、かの姫が絶対に正しいわけでもないのです。瑠花様に認められるために政事をとろうとすれば、また別の誰《だれ》かがそれに反発し、離《はな》れていくでしょう。それを繰《く》り返すことに何の意味もございませぬ。いずれ何が正しいかもわからなくなり、道を見失い、その場凌《しの》ぎの選択《せんたく》をつづけてゆくだけになりまする。主上は主上が自分で見つけた『芯《しん》』を揺《ゆ》らがずおもちください」その通りだった。それでは、秀芹に好かれようと政事をしていたときと何も変わらない。  羽羽の言葉は簡潔明瞭《めいりょう》で、現実に裏打ちされた重みがあった。思えば擢喩と並ぶ最年長者として、実務の第一線ではなくとも、父や祖父の時代から、政事を見てきた。  なのに、劉輝は今初めて、羽羽の言葉を聞いた。 「繚家のことは、繚家の者が決めるでしょう。標家を動かすのも、変えるのも、主上《しゅじようl》ではなく、繚一族が決めるべきことなのです」リオウは顔を背《そむ》けた。まるで、自分に言われているような気がした。  劉輝は仙洞省を出ると、最初から最後までずっと|黙《だま》ったままの静蘭を振り返った。静蘭は一度も|驚《おどろ》かなかった。次期王と目されていた兄が、とうに羽羽の話を知っていたとしても、なんらおかしくなかった。思えばずっと前から、静蘭は繚家の動きを気にしていた。  舟《ふね》の上で、秀麗に期限をつけたのは、思いつきだった。|嘘《うそ》はないが、最後にかき集めた前向きな気持ちでいったものだった。けれど今は、それさえぺしゃんこになりそうだった。 「静蘭……秀寮、に」 「はい」  沈黙《ちんもく》の後、なんでもないと|呟《つぶや》いて、劉輝はその場をあとにした。       ・翁・器・  後宮に戻《もご》った劉輝を出迎《でむか》えたのは、珠翠のかわりに筆頭女官となった十三姫だった。  おかえりなさーい、と言おうとして、十三姫はふっと劉輝の表情に気づいた。  すぐに女官や侍官をさがらせる。あっというまに珠翠のあとを引き継ぎ、後宮を掌握《しトやつあく》し、珠翠はりに仕切ったその統率《とうそつ》ぶりは見事なものだった。十三姫日《いわ》く、 『珠翠さんには及《およ》ばないけど、暴れ馬を御《ぎよ》すほーが難しいからなんとかなったわ』  であった。  十三姫は劉輝を私室まで引きずっていくと、テキパキと茶を紺《l》れた。一人分でなく、しっかり自分のぶんと二人分掩れるのが珠翠とは違《ちが》うところだ。 「またなんかあったの」 「……余はそんなにわかりやすいか」 「馬よりはわかりやすいわ」  馬よりわかりにくい人間というのもそれはそれで複雑だ。  劉輝は湯呑《ゆの》みを持ったまま、ぺたんと敷物《しきもの》に直接あぐらをかいて座った。  すると、十三姫が背中合わせに寄っかかってきた。  劉輝は掩れてくれた茶をすすった。少し熱めの茶が冷えた体にしみわたった。  よくわからないが、涙が《なみだ》出てきた。  自分が間違っているのか、正しいのか。あきらめるべきなのか、まだ踏《ふ》み留《とご》まるべきか。  何もかも、もうわからなくなっている。大事なものが残らず崩れていくような気がした。  十三姫とは背中合わせだったから、泣く様を見られずにすんだ。 「……余は……何もかも間違ってしまった気がする……」 「気のせいよ。疲《つか》れてんのね。夜ってムダに絶望的になんのよ。明日になれば元気になるわ」あっさり切り捨てられた。劉輝は鼻をすすった。 「王様なんてねー、何したってみんなからいじめられるのが仕事なのよ。あっち立てればこっち立たず。殴《なぐ》られっぱなしなんだから。何もかもうまくなんていかないわ。しよtがないわよ、新米王様なんだから。でも、あなたちゃんと何かはつかんで帰ってきてるじゃないの。乗馬だって最初は落ちることから覚えんのよ。慣れてったらちょっとずつ楽になるわよ」 「……でも、も、もっと、早くから、頑張《がんぼ》ってればよかった」 「そう思ったことのない人間のほーが少ないわよ。最後まで頑張らないままよりはいーじゃないの。何、今から頑張っても、なんともならないことでもあったの」劉輝は茶をすすった。またぼろろっと涙がこぼれた。なんでわかるのだろう。  十三姫が肩越《かな」》しに手巾《てぬぐい》を放《ほう》り投げてきた。劉輝はちーんと鼻をかんだ。 「……秀麗を……嫁《よめ》にはできないかもしれない」  十三姫は沈黙した。これはどう慰《なぐさ》めるべきか�。 「……え、ええと。まあ、そしたらあたしが嫁になったげるわよ。初恋《はつこい》って叶《かな》わないもんだってゆtL。……私もダメだったし。秀麗ちゃんと顔くらいは似てるし」 「誰が」 「え? 私。ん? そういえばあなただけは、似てるってひとことも言ったことないわね」筆頭女官として入ったらしばらく『紅貴妃《きひ》が戻ってきた』と散々間違えられ、静蘭でさえ、会ったときにぎょっとした顔をしたのに。  思えばこの王だけは、一度もそんな素振りを見せたことはない。 「そなたはそなたで、秀麗は秀選だ」  十三姫は茶をすすった。心があったかいのは、お茶のせいに違《ちが》いない。  王様は可哀相《かわいそう》だと、十三姫は思う。藍州に行くとき、泣いていたのをこの目で見たから。  一人で頑張って頑張って頑張って、でも、……やっぱりこうして泣くくらいつらいのだ。  逃げ道くらい、あったっていいと思う。 「……王様が抜《ぬ》き差しならなくなったら、馬でどっかへ逃げてあげるわよ。こんな城くらい、馬で脱走《だっそう》するの簡単なんだから。頑張るだけ頑張って、もうダメだって思ったら、あなたが王様じゃなくてもいいとこに連れてったげるわ。約束してあげる」劉輝は目を丸くした。そんなことを言ってくれたのは十三姫が初めてだった。 「……本当か?」 「ほんと。でもまだダメなんでしょう。泣くほど好きなものは、そう簡単に手放しちやいけないのよ。秀願ちゃんのことも、もちょっと粘り腰《ねぼごし》でいきましょうよ。ここは楸瑛見様見習っての|一緒《いっしょ》に考えてあげる。それでも、どうしてもダメだったら、……私で我慢しなさいよ」 「そんなの、余がダメな男みたいではないか」 「はあ? 秀麗ちゃんと会う前、あなたがどんなダメな性生活してたのか、もう耳タコなくらい聞いてんのよ。今さら何カワイコぶっちやってんのよ。あんたは超ダ《ちょう》メな男だわよ」劉輝の鼻水が止まった。 「聞いたのか!?」 「聞かされたのよ。自信満々に。あたし男から牽制《けんせい》されたの初めてよ。王様とっかえひっかえモッチモテね〜。楸瑛見様もいい加減ダメな男だと思ってたけど、あなたもどっこいどっこいね。今さらどんなダメっぷりを見せられても幻滅《げんめつ》しないから安心しなさいよ。舟でしくしく泣いてるのも見たし、ゲ口ゲロ吐《は》いてぶっ|倒《たお》れてるのも見たし、馬にお悩《なや》み相談してるのも見たし、山で一人で|遭難《そうなん》してるのも見たし、あげく高山病で迅に看病されてるのも見たしー。あとパンダに慰められたんですって? 今さらカッコつけられてもねぇ。鼻で笑っちゃうわー」 「………………………………」ものすごくダメな男だと劉輝は思った。 「だから、後宮にいるときくらいは、どんなみっともないことしてもいーわよ。もともとそーゆー場所でしょ、王様にとったら。で、朝になって元気になったら、カッコいいトコ見せに、いそいそ秀麗ちゃんとこ行ったらいーわ。明日の朝ご飯なにか食べたいものある?」劉輝はぐしぐしと涙をぬぐった。 「……肉まん」 「了解」《りょうかい》       ・巻・翁・ 「あーあ。一緒に及第《きゅうだい》して、文武の出世街道青進《かいどうぼくしん》中だったのに、お互《たが》い一気にスコーンと転げ落ちちゃったねt。静蘭と秀麗殿に抜かされるってイヅタイ……まあ人生休みも必要だよね」吏部侍郎室で私物を片づけていた絳攸は、呼んでもないのに手伝いにきていた(|暇《ひま》な)楸瑛に、背を向けながらボソッと呟いた。 「楸瑛」 「ん? L 「……今回は、悪かった」 「お互い様だろ」  絳攸は慨然《ぶぜん》とした。王と楸瑛が、毎日欠かさず絳攸の牢《ろう》を|訪《おとず》れ、べちゃくちゃどうでもいい話をして、傍《そぼ》にいたのだと、秀麗から聞いて知っているが、礼なんかいわないのだ。  絳攸はふと、�花菖蒲《はなしようぶ》″の刻まれた佩玉《はいぎ上く》を見た。 「俺に残ったのは、この�花菖蒲″だけか」 「充分だ《じゆうぷん》ろ。……王は最後まで、それだけは取り上げたくないと言っていたよ」  締牧はちょっと笑った。  そうして私物を片づけて吏部侍郎室を出た経仮は、向こうから歩いてくる人影《けとかげ》に気づいた。 「楊修様……」  楊修はほんの一瞬、《いつしゅん》絳攸に目を向けただけで、あとは|一瞥《いちべつ》もせず、すれ違った。  絳攸はその背を見送り、深々と礼をした。  見限られても当然の醜態《しゅうたい》をさらしてばかりだったけれど。  それでも最後の最後、楊修は絳攸の許《もと》を訪れてくれた。  初めて、絳攸を一個の人間として認め、必要だといってくれたひと。 「……また、一からやり直しだな」  また、楊修の目に映るのが許される日まで。  楸瑛は歩きながら、低く|呟《つぶや》いた。 「それにしても、君と黎深殿が一気に処分されるとなると、これから一悶着《ひともんちゃく》あるな」 「……お前の時と違《ちが》って、紅姓《せい》官吏は山ほどいるからな。何より……均衡《きんこう》が崩れた」  国試派、貴族派で括抗《さつこう》していた一角が崩れた。それも、いちばん崩しにくい相手だったはずの黎深を、あっさりと切り崩して見せた。加えて紅家と藍家を鮮《あぎ》やかに切って見せた。  貴族派にとって、黎深の一件は単なる始まりの合図にすぎないのではないか。  絳攸は唇を噛《くちげるか》みしめた。あとには引き返せない何かが始まろうとしている気がした。       ・巻・薔・ 「二人でゆっくりするのも久しぶりだねぇ、黎深」  百合は細々と、慣れた手つきで紅邸に帰った黎深の世話をしていた。 「ていうか、会うのも久しぶりだね。どれくらい会ってなかったっけ。半年くらい?」 「一九二日ぶりだ。半年越《▼)》えてる」 「細かいね君は!」  百合はずかずか私室に入っていく黎深を追った。 「|不機嫌《ふきげん》だね、黎深」 「……なぜ私より先に絳攸へ会いに行った」 「当たり前だろ! ノホホンと尚書室で無事でいる旦那《だんな》より、牢屋《ろうや》の中の大事な|息子《むすこ 》に会いにいく方が先決に決まってるじゃないか!!」 「ふん。夫より息子か」 「そうだよ。お母さんだからね。君だってそうだろ」 「…………」百合はふてくされたようにあぐらをかく黎深の背を見た。  トン、とうしろから抱《だ》きしめる。 「……頑張《がんぼ》ったね、黎深。|偉《えら》い。子供は親から離《はな》れていくものなんだから、仕方ないよ。ビーでもいいと思ってた吏部尚書官位が、絳攸の成長の糧《かて》と未来への踏《ふ》み台になって、全然使われなかった吏部尚書の机案《つくえ》と|椅子《いす》も報《むく》われるってもんだよ。いやー、でも本当に経倣、君を尚書から蹴落《けお》とすと嫌《きら》われるって信じてたんだ……。官位なんてものすごくビーでもいいっていう君の日々の心からの主張さえ、絳攸の中では何か美しいモノに聞こえてたのかな……。君、早くしろとっととやれ、つてすごいイライラしてたんじゃないの」 「お前が廿やかすからグダグダになったんだ」 「なにt。君がいつまでも絳攸にアレやれコレやれ言うから親離《おやぼな》れしなかったんだよ!」  黎深の髪《かみ》を引っ張る。 「……そういえばさ。不思議に思ってたんだけど、君、絳攸をどこで見つけたの? 私が馬車で熟出して寝こんでたときに拾ったんだよね?」 「山の上」 「山!?あのとき冬だったよね。のぼったの? 眉が〜なんでまた」 「馬車で山道を通っていたら、いきなり文鳥が二羽《jょl−》飛びこんできてな。白いのと灰色の」 「……真冬に? そりゃまたお伽噺《とぎぼなし》のような話だね。で?」 「手巾《てぬぐい》をもって飛んでいった」 「……はあ、手巾。君にしては控《けか》え目な盗難《とうなん》品を追っかけたね」 「……お前のおしぼりにしてたんだ」百合は日を丸くし、赤くなった。たまには年下も悪くないと思うのはこういうときだ。 「追いかけたら、コウがいたの?冬の山の中、に�」  百合は口を喋《う・ぐ》んだ。  真冬の山に、子供が一人。  帰るところはある? ときいた百合に、|凍《こお》りついたような顔をしたコウを思い出す。  百合はぎゅっと黎深を抱きしめた。 「……そっか」  黎深の双絆《そうぼう》が、束《つか》の間、深く沈《しず》んだ。 「……似ていたんだ」 「ん?」 「目が。どこか遠くを見ていた。兄上を待つ、私に似ていると思った」  でもあの子供は黎深よりも悲しかった。  誰《だーl》かを待っていたはずなのに、誰を待っているかわからないと、あの子供は泣いた。  大事な人がいたはずなのに、忘れてしまったーと。  邵可をあてどなく待っているだけでも悲しかったのに、そんなのはたえられるはずがない。  だから、拾うことにした。せめて自分と同じあの子供が、誰を待っているか思い出すまで。  生智《いけにえ》にならなきゃならないので一緒にはいけません、イヤですなどと散々阿呆《あほう》なことをいって抵抗《ていこう》したあのバカを、むりやり木からひっペがして馬車につめた。  コウがおとなしくなったのほ、熱でぶっ|倒《たお》れていた百合を見てからだった。 「こんな|綺麗《き れい》な女の人、初めて見ました」というコウに、試《ため》しに看病しろといったら、逃《に》げ出さなくなった。 「……もう、絳攸は忘れているだろうがな」  百合はようやく理解した。どうして、コウを拾ったのか、ずっと不思議に思っていた。  ……黎深は、コウに昔の自分を重ねていたのだ。  いつまでたっても帰ってこない、誰より愛する長兄《ちょうけい》を待ちつづけた自分と。  一人よりも、もっと|寂《さび》しい、愛する人が欠けた半分だけの心。 「君には私がいるよ。ずっとずっと君のそばにいるから」 「……嘘《ヽ? そ》つくな。一九二日もほったらかしてどの口がそれをいう」  君が仕事しないからだろ、と百合は思ったが、言わなかった。 「わかった。じゃあ、君の言うことを聞いてあげる。君が行くなというときは、絶対どこにもいかない。約束する」黎深はチラリと百合を見た。そしてぼそっと|呟《つぶや》いた。  百合は目を丸くした。そんな言葉、一生聞けないだろうと思っていたのだが。 「……いいよ。約束する」  黎深ほふん、とそっぽを向いた。 「……百合、私はすぐに紅州に戻《もり】》る」 「……は?ちょっと待て。何それどうゆうこと」 「すぐに帰る必要がある。いくつかやることがある。それに調べたいこともある」 「やることって−」  言いかけ、百合はバツとした。�まさか。そこまで王は追い込まれているのだろうか。 「……わかった。じゃあ私は貴陽に残る」 「お前、つい三拍《ばく》前に自分がなんといったかも忘れたのか!」 「えへ。ごめん。撤回《てつかい》。待って。絳攸もいるし、チビちゃんも心配だから残るよ」  紅家当主が王に罷免《ひめん》され、紅州へ|帰還《き かん》。傍目《はため》にどう映るか考えなくてもわかる。  変化が、起こりつつある。それも急速に。  ……絳攸をずっと待っていてくれた王。昔メソメソしていた公子が、今は必死で踏《ふ》み留まろうとしている。できうることなら、百合は力になってあげたかった。 「あの子たちが苦労してるのは、もとはといえば私たちのせいだよ。ずっと一族だけ優先して、誰にも手を差し伸《の》べないできた。−でももうそろそろ、紅家も変わってもいいころだよ」百合は黎深をぎゅうっと抱《だ》きしめた。 「だからさ、黎深。今度は君が迎《むか》えにきてよ。貴陽にいるから」  黎深はムッとHをへの字に結んだが、一緒に帰れとはとうとう言わなかった。 「やることやったら、迎えにきてね」       ・翁・翁・  静蘭はその晩遅《おそ》く、庭院《にわ》でぶらぶら歩く秀麗を見つけた。  静蘭が庭院に降りると、秀麗がふと顔を上げた。 「……あら、静蘭。どうしたの」 「お嬢様《接しようきま》こそ、こんな夜にどうされました。もう寒いですよ」 「なんとなく、散歩」  静蘭が隣《となり》に並んだ。秀麗はぐるりと庭院を見渡《みわた》した。 「本当はね、ちょっと母様のこと、思いだしてたの」  百合と会ったからかもしれない。生前の母を知る人。 「お嬢様。今回は、本当にお疲《つか》れさまでした」 「……ホントは全然たいしたことできなかったことくらいわかってるわ。緯倣様をなんとか首の皮一枚でつなげただけよ。全部後手後手で……清雅と葵長官のもくろみどおりの結果」月明かりの下で、秀庫は溜息をこぼした。静蘭にはその溜息がまるで真珠《しんじゆ》のようにこぼれて転がっていくのが見えた気がした。 「……劉輝が心配だわ……」  何かが終わったという気が全然しない。ひどく心がざわついて仕方がなかった。  むしろゆるゆると、何かがはじまろうとしている気がしてならなかった。  静蘭は仙洞省で会った劉輝を思い出した。 「……お嬢様、藍州からの帰り、舟《ふね》で王に最後の|求婚《きゅうこん》をされたとおっしゃってましたね」 「ええ。期限付きで」 「やはりお心は、動かないのですか」  秀麗は笑った。そしてサラリと告げた。 「むりよ。私、母様と同じだもの」  子供ができないといわれていた母。|奇跡《き せき》が起きて、秀麗が生まれて、本当に本当に嬉《うれ》しかったと、散々聞かされた。でも劉輝は奇跡を待てる立場じゃない。 「世の中、母様みたいにうまくいかないわ。これぽっかりはね」  しかも妃は一人と宣言したというから、なおさら秀麗が嫁《よめ》になるわけにはいかない。  万に一つも、秀席が劉輝の嫁になることはありえない。  たった一人の妃というのはいい案だ。劉輝にはそっちのほうが似合っている。  ただし、秀産はのぞいて。 「お嬢様……」 「あら静蘭、何よその顔。失礼しちゃうわね。私はちゃんと幸せよ。夢見た道を突《つ》っ走《ばし》ってるんだから。実際今九割九分結婚《けつこ人》する気ないけど、一分くらいならあるのよ。父様みたいに、死ぬまで二人きりでいい、つていってくれる人がどこかにいたらね」秀麗はまたぶらぶら歩き出した。 「……でもそれは劉輝には言えないから、逃げ切んなくちゃならないのよ」  秀麗は自分に言い聞かせるように、そう呟いた。  あとがき  初夏の候、ご|機嫌《き げん》いかがですか。最近、人間てしぶといな! としみじみ実感している雪乃《ゆきの》紗衣《きい》です。今回、完徹《かんてつ》記録をググッと更新《こうしん》。六〇時間一睡《いっすい》もしなかったのは生まれて初めて。  水分だけはとって仕事。我ながらピックリです。人間てすごいな! やればできるんだな! 五日で体重が五キロ落ちようが構ってられません。うちで元気なのは梅の盆栽《ぼんさい》くらいですな。  そんな作者の生気を極限まで吸いとってくれた 「境拍《こはく》」。絳攸に思い切り|焦点《しょうてん》を当てたせいもありますが、いつもとだいぶ毛色が違《ちが》う感じに。短編集 「白百合」とも関《かか》わりの深い話にもなりました。締牧について行ったら|一緒《いっしょ》に私も迷宮《めいきゅう》でぐーるぐるしましたが、物語も少しずつ進んでます。久しぶりの面々もちらほら顔見せ。岐路《きろ》に立つのは経倣だけではありません。  よろしければ、もう少々お付き合い下さいませ。由羅《紬ら》カイリ先生、今回も本当にありがとうございました。文鳥が可愛《かわい》いです(そこか)。緯倣ももうこの表紙だけが頼《たよ》りです(おい)。  このあと、小さなお話が続きます。今回はオマケではなく 「境拍」の隠《わく》れたもう一つのラストです。ちょっと考え、ここに置くことにしました。おそらくもう語ることもなく、経倣自身も忘れた彼の『原点』です。——では最後に、読者様へ心からの感謝をこめて……。                                 雪乃紗衣  白文鳥と桜文鳥は、絳攸が最初にまどろんでいた小さな畑にゆっくりと戻った。  そこは、誰も知らないような山の奥の小さな村。  その日も昨日と同じ今日がくるはずだった。それはまるで朝がきて夜がくるように。  夫婦《ふうふ》はいつものように雄鶏《おんどり》よりも早く起きると、支度《したく》をして、|一緒《いっしょ》に畑に向かった。結婚して何十年もたつが、季節が移ろい、歳を重ねていくこと以外、何一つ変わらない。気づけば二人ともに老人となっていた。  詭ルろがその日、二相に畑に向かう|途中《とちゅう》、澗き慣れない声が洞投た。  突然、妻が何かに気づいたように畑の中へ駆け出した。夫は仰天した。 「あんた! 見てちょうだい」  嫁が抱きあげたものをみた夫は、|呆気《あっけ 》にとられた。   −妻の腕《うで》の中には、元気に泣く赤ん坊《ぼう》が抱《かか》えられていたのだ。  その日から、ふたりきりで暮らしていた夫婦の生活が変わった。  世界はその元気な赤ん坊を中心に回り始めた。  赤子はすくすくと成長し、幼子になった。  ある日、幼子がひどく風邪《かぜ》をこじらせた。夫婦は子供を台車に乗せ、衣服や毛布でくるみ、食べものものせ、二人で一緒に台車をひいて、お医者に行くため山を下りた。近くのお医者まで連れていくにも、何日も歩かないとたどりつけない場所だった。  山を下り、老人の体で台車をひき、みてくれるお医者を人に聞き聞きたずねあるき、そうしてたどりつくまでに五目かかった。  お医者は話を聞いて|驚《おどろ》き、次いで同情した。 「大変だったでしょう」  なけなしのお金をはたき、畑も放《はう》り出して、五日も重い台車をひいてさまよい歩き。  そういわれた老夫婦はきょとんとした顔をし、そして笑いあった。 「不思議なことをおっしゃる、お医者さま。私たちほ、子供がいる生活がこんなにいいものだなんて、今まで知らなかった。ずっとずっと二人きりで静かにすごしてきたんです。それでも|充分《じゅうぶん》幸せだと思ってましたけれど、違《ちが》ったんです。この子を拾ってからの幸せとは、比べものになりません。この子を拾って、私たちはとてもとても幸せになった。泣いて、笑って、ぐずって……この子のために畑を耕し、水を汲《く》んで、お医者を探して。そのすべてが、私たちの宝です。何一つ、苦労なんてありません。この子がいてくれるだけでいいんです」だから、と老夫婦は照れくさそうに笑って子供を見た。 「私たちはこの子を、天から降ってきた�幸運の子″と呼んでいるのです」  子供につけた名前を� 「光《コウ》」  それを偶然《ぐうぜ人》聞いていた男がいた。男は�幸運の子″を、金や運をもたらす子だと信じた。  元気になった子供と三人で、みんなで仲良く台車を引いて、山に帰る途中だった。  しとしとと雨が降ってきたので、老夫婦は病《や》み上がりの光のために、この先にある大木で、先に雨宿りをしているようにと言った。待っていてね、と。  光はそのとおりにし、大木でずっと待っていた。待つのは嫌《きら》いではなかった。  待って、ニコニコしながらおとうさんとおかあさんがくる時が、光は大好きだったから。  そうして待って、待って、待って−誰《だll》も来なかった。  光は不思議に思い、もときた道を戻《もど》ってみた。  雨でぬかるみ、泥《どろ》だらけになりながら、懸命《けんめい》に戻ってみると、見慣れた台車が道の端《はし》にバラバラに壊《こわ》されて転がっていた。  大好きなおとうさんとおかあさんを呼びながら小さな足で必死で捜《さが》しー。  ようやく見つけた二人は、赤黒い水の流れる地面に転がっていて、いくら呼んでもゆすっても、もう光を呼んではくれなかった。 『光−私たちの幸運の子』  欲深い人買い男に無惨《むぎん》に殺されて死んだ老夫婦の姿が、白文鳥と桜文鳥にかわる。  ……ごめんね。お父さんとお母さん、約束の場所に帰ってあげられなくて。  ありがとう。|記憶《き おく》を忘れても、ずっとずっと待っていてくれて。でも、もういいの。  もう、私たちを待たなくてもいいんだよ。忘れたままで構わないの。  どうか幸せに−コウ、緯倣。愛する私たちの幸運の子。  あなたを拾って、あなたと一緒にいるだけで、私たちはとてもとても幸せだったの。  その言葉だけを残して、二羽は再び絳攸の中で眠りについた。